第四話:家臣暴走
紀元前202年8月、盧綰は燕王に任命された。

それからの数年は粛清の嵐が吹き荒れた。

盧綰が燕王になった翌年の紀元前201年には、早くも大功臣である楚王韓信が

王位から引きずり降ろされ淮陰侯となった。

紀元前199年には趙王張敖が王位を追われた。


紀元前197年、

盧綰ら王位にあるもの(淮南王黥布・梁王彭越・燕王盧綰・荊王劉賈・楚王劉交・斉王劉肥・

長沙王呉)が来朝し、高祖劉邦に拝謁した。


紀元前196年、代の地で陳(ちんき)が反乱を起こした。

これは淮陰侯に格下げされた韓信と共謀しての行動であった。

劉邦は陳討伐に親征し、盧綰もこれに参加した。

討伐軍は次々と陳軍を撃ち破り、降伏したり殺される者が多かった。

は匈奴と共同作戦をとっていたので、匈奴に救援を要請した。

盧綰はこれを知り、部下の張勝を匈奴に派遣し、

「漢は大勝し陳は再起不能である。」と伝え、救援を思い留まらせようとした。


張勝が匈奴に地につくと、臧衍という者が訪ねてきた。

この臧衍という男、盧綰に深い恨みを持っていた。

なぜなら、彼はもと燕王であった臧荼の息子だったからである。

父は王位を盧綰に乗っ取られ自分は匈奴に亡命し、恨みは髄に達していたであろう。

彼は、張勝にこう助言した。

「盧綰どのの王位が6年間も続いているのは、諸侯が度々反乱を起こし、

それを討伐するのに燕王の力が必要だからなのです。

今あなたは陳を早急に撃とうと考えておられるが、

ほんとうに陳らが全て滅ぼされてしまえば、次は燕王が滅ぼされますぞ。

盧綰どのが燕王の位を少しでも長く保ちたいなら、陳討伐の手を緩め、

あなたは盧綰どのと匈奴の間に和親を結ぶお手伝いをするべきです。

もし、漢軍が大敗するようなことがあっても、これならば燕国は安全でしょう。」

張勝はこれを聞いて、もっともだ、と納得してしまった。

劉邦のやり方を見て納得できるところがあったのだろう。

そして、匈奴に「陳を早く救済するように」と勝手に交渉してしまった。


盧綰はこの話を伝え聞き、張勝が匈奴に寝返ったのかと思い

張勝の一族を皆殺しにしようとした。

張勝は焦って帰国し訳を説明すると、盧綰は「なるほど」と納得し処刑をやめた。

そしてまた張勝を密かに匈奴に派遣し連絡を取らせた。

さらに范斉という家臣を陳のもとに遣わし、

「ずっと逃げ回ってください。こちらは追いかけるだけで攻撃はしません。

戦争を続かせて決着をつけないことを希望します。」

と言わせた。



盧綰はよい家臣に恵まれていなかったように思える。

盧綰自身が頼みにしていたのは優秀な家臣でもなく自分の才能でもなく、

劉邦との信愛関係だったからではないだろうか。

「自分は劉邦の手足であり、自分の体が自分の手足を罰することは無い」

と、頑なに信じていたからではないだろうか。

しかし、こうした甘えが盧綰の運命を悲しいものに変えてゆくのであった。


盧綰の最期を記した司馬遷の筆も悲しみに満ちている・・・


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