第二話:劉邦を佐く


始皇帝二十五年、王翦が会稽・東甌を攻め、越は秦に降った。

翌二十六年、秦は天下を統一し、越の王たちを廃して酋長とし、会稽郡・びん中郡を置いた。

越が不満であったのは言うまでもない。


諸侯が秦に叛くとすう無諸・すう揺は東越の民を率いてこれに参加し、

人望の厚かったは君(は陽県令呉ぜいのこと。後の長沙王)に属した。

何故項梁に属さなかったのかはよくわからない。どうやら呉ぜいが越の心をよく掴んでいたようだ。

ぜいが英布と組みさらに項梁と組むに至り、東越は諸侯に属すこととなり共に秦を滅ぼした。

項羽は王侯を任命する際にすう無諸・すう揺を王に立てなかった為、東越は項羽に親しまなかった。


劉邦が項羽を撃つと、すう無諸・すう揺は東越の兵を率いて漢を助けた。

東越兵は強兵だったらしく、項羽を滅ぼした後の論功行賞で侯に任じられた者が五人いる。
(下部に一覧を載せておく。漢書功臣表より)

すう無諸・すう揺が最初に属したは君呉ぜいは長沙王となった。
(越に睨みを利かせる意味もあったかと思われる)

すう無諸はびん越王に任命され、びん中郡を領地として与えられ冶を都とした。

恵帝三年にはすう揺が東海王に立てられ、東甌を都とした。世間ではすう揺を東甌王と呼んだ。


列侯となった越将たち

 丁復 (陽都侯。7800戸を与えられる)

越将として薛で劉邦に属す(項梁が諸侯を薛に集めたときだと思われる)

漢では始め周呂侯(呂后の兄呂沢)に属し、後彭城を陥落させ大司馬となる。

忠臣と称えられ、列侯内の位は十七番目であった。

一位から十八位まで順に並べると、蕭何・曹参・張敖・周勃・樊かいれき商・奚涓・夏侯嬰・灌嬰・

傅ェ・きん歙・王陵・陳武・王吸・薛歐・周昌・丁復・蟲達となっており、

丁復はかなりの重臣であったことが解る。しかし伝は立っておらず、詳細は不明である。

丁復は封じられて19年して没した。呂后六年、子のィが継ぎ、12年して没した。

文帝十年、子の安城が継ぎ15年後罪があって侯を免ぜられた。

このとき陽都侯は17000戸を領有し万戸侯となっていた。

後、宣帝元康四年に丁復の曾孫賜が家名を継ぐことを許された。


 傅胡害 (貰侯。600戸を与えられる)

越将として劉邦に属し秦を攻撃し、都尉となって項羽を攻撃した。列侯内の位は三十六番目。

傅胡害は封じられて2年で没し、高祖八年に子の方山があとを継いだ。

20年して没し、文帝元年に子の赤が継ぎ11年して没した。

文帝十二年、子の遺が継ぎ44年して没した。

武帝元朔五年、子の猜があとを継いだが、人を殺し晒し首となった。

後、宣帝元康四年に傅胡害の曾孫遺が家名を継ぐことを許された。


 搖母餘 (海陽侯。1700戸を与えられる)

越将として劉邦に属し秦を攻撃し、都尉として項羽を撃った。列侯内の位は三十七番目。

搖母餘は封じられて一年で没し、子の昭襄が恵帝三年にあとを継いだ。

9年して没し、子の建が呂后五年に継いだ。30年して没し、子の省が景帝四年に継いだ。

10年して没し、子がなく海陽侯は断絶した。

後、宣帝元康四年に搖母餘の玄孫の子・未央が家名再興を許され、

哀帝元寿二年には搖母餘の玄孫の孫・賢が関内侯に任じられた。


 華毋害 (終陵侯。740戸を与えられる)

越将として留より劉邦に従い秦を破り、臧荼・韓王信・英布を撃つ。列侯内の位は四十六番目。

華毋害は封じられて35年して没し、子の勃が文帝四年に継いだ。

16年して没し、子の祿が文帝後四年に継いだ。7年して罪を犯し免ぜられた。

この時、終陵侯は1500戸を領有していた。

後、宣帝元康四年に華毋害の玄孫・告が家名再興を許された。


 革朱 しゃ棗侯。900戸を与えられる)

越の連敖として薛で劉邦に属し、都尉として諸侯を攻撃した。列侯内の位は七十五番目。

革朱は封じられて7年で没し、子の式が文帝二年にあとを継いだ。

21年して没し、子の昌が景帝中二年に継いだ。2年して罪を犯し免ぜられた。

後、宣帝元康四年に革朱の玄孫・奉が家名再興を許された。



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