第六話:木彊人也


劉邦が死ぬと、呂后は使者を遣って趙王(劉如意・戚姫の子)を召し出そうとした。

当然、殺そうと思ってのことである。母親の戚姫はすでに獄に入れられていた。


しかし、周昌がいた。

彼は呂后が劉如意を殺そうとしていることは重々承知だったので、

「お、お隠れになった高帝(劉邦)は臣に幼い趙王のことを頼まれました。

密かに聞くところによると、呂后さまは戚夫人を怨み、子の趙王をもおびき寄せて

一緒に誅殺しようと望んでおられるとのこと。

し、臣はあえて趙王を行かせません。

しかも趙王はご病気です。詔を奉ずることはできません。」

と使者に言い、絶対に行かせようとはしなかった。


呂后は苛立ち、劉如意を召し出そうと三度使者が往復した。

しかし周昌は、劉邦の「趙王を守ってくれ」という言葉を盾に断固として行かせようとはしなかった。

呂后は周昌に遠慮もしていたし恩も感じていたので、気にやんだ。

そこで周昌を先に召し出そうと考えた。


周昌はむりやり召し出され、呂后のもとへ行くことになってしまった。

周昌が到着し呂后に拝謁すると、呂后は腹立たしげに罵った。

呂后 「おまえは、わたしが趙王を憎んでいると知っているはずではないか。

趙王をよこさないとはなにごとですか!!」

周昌 「・・・・・・・・・。」


周昌が都に召し出されている間に、趙へ呂后の使者が行った。

趙には、もう呂后の横槍をはねのける者はいなかった。

劉如意は都へ連行されてしまった。


しかし、劉如意には味方がいた。

時の皇帝、恵帝である。

彼は異母弟が殺されようとしていることに気づき、弟を守ってやろうとした。

恵帝は、趙王の一行を覇上まで迎えに行き、共に宮廷に入った。

常に自ら趙王の身を庇い、趙王と起居飲食を共にした。


しかし、あの呂后である。

息子の恵帝が何をしようとお構いなしだった。

ある早朝、恵帝は狩りに出かけたが、幼い劉如意は起きられなかった。

呂后は劉如意が一人でいると知り、朝食の中に毒を入れた。

恵帝が狩りから帰ってくると、劉如意は死んでいた。


周昌は一部始終を見ていた。

しかし彼は呂后に監視されており、劉如意にまったく近づけず守ってやることさえできなかった。

劉如意が死んだと聞くと、周昌は病気と偽りそれ以来参内しなくなった。

三年後、周昌は家で亡くなった。



司馬遷は周昌について短い評を残している。

「周昌、木彊人也。」

周昌は木石のように硬骨で、真っ直ぐな人であったということであろう。



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