劉邦は張良の「和睦を破れ」という勧めを聞き入れ、項羽を追い詰めた。 垓下で項羽は重包され、九江郡東城の烏江のほとりで灌嬰の部隊が項羽を斬った。 周勃は引き返して項羽の本拠地であった泗水郡・東海郡を平定した。 天下が平定されると功臣粛清が始まった。 まず燕王臧荼が謀反したとされ攻撃された。 臧荼の討伐には劉邦自ら向かったが、 周勃は劉邦の前線で活躍し、易で臧荼軍を撃破し大きな戦功を立てた。 漢王六年(BC201)、劉邦は蕭何を筆頭として功臣を列侯に封じた。 周勃は蕭何・曹参・張敖についで位次は四番目となり、 河東郡絳県の八千二百八十戸を与えられた。 周勃は名実ともに大功臣となり、絳侯と称された。 |