第二話:陳勝潰乱




秦という国は黒色を重んじ、軍隊の衣服や旗はすべて黒だった。

章邯は、寄せ集めの兵士達20万に黒の軍服を着せ黒の旗幟を持たせた。

咸陽郊外の野は黒一色となり、粛然とした。

秦人はみな野を埋め尽くす黒色を見、勇気がわき士気が揚がった。

内心不安に思っていた20万の兵士たちの気持ちも一気に高まった。


章邯は、名将王翦の孫の王離ら歴戦のつわものを指揮者に採用し、

兵を率いて咸陽を出、周文軍が駐屯していた戯に向かった。

咸陽の人々は、粛然とした黒一色の軍隊の様子を見て、勝利を疑わなかった。


章邯は戯に到達すると、すぐさま陣を布いた。

反乱軍は、20万の黒い集団―秦正規軍―を見て戦意を喪失した。

しかし周文は兵を叱咤し突撃させた。

が、秦兵が黒い塊となって整然と攻め寄せてくると、反乱軍はみな恐れをなし逃げ惑った。

周文軍はたった一度の戦闘で潰乱し、反乱軍はそれぞれ故郷目指して逃走した。

周文は戦線を維持することは難しいと判断し、残った兵をまとめて函谷関を脱出し曹陽に布陣した。

そして堅固な陣を築き、数ヶ月の篭城に耐えられるだけの兵糧を運び込んだ。


章邯軍は敵を追撃して曹陽まで来てみると、一大陣地が出来上がっており、皆驚いた。

章邯は攻撃を命じたが敵陣は堅く、負傷者は増えるばかりだった。

周文は、なんと二ヶ月以上曹陽で章邯軍の猛攻を耐えた。

しかし、兵糧・武器が無くなったところを急襲され、軍は壊滅した。


しかし周文はしぶとかった。

またもや敗残の軍隊をまとめ、(べんち)に陣を布いた。

だが今度は十日しか持ちこたえられず、

周文は頚動脈を断ち切って自害し、兵は四散した

この戦いで、章邯は陳勝軍主力を叩き潰した。


(管理人が思うに、周文の統率力には物凄いものがある。

農民や流民あがりの戦を知らぬ者達を率い、天嶮の函谷関を破り秦に侵入した。

しかし章邯の統率力はさらに上をいっていた。

刑徒や奴隷の子弟を率い、勢い揚がる周文軍を壊滅させた。

もしかすると、この二人はすごい名将なのかもしれない・・・?!)



章邯は反乱軍主力を叩き潰した勢いで、陳勝の本拠地・陳を目指した。

道中、陽を包囲中だった陳勝の大臣・田臧(でんぞう)と遭遇し、これを徹底的に潰し田臧は戦死した。

続いて、(たん)に布陣していた説を打ち砕き、説は陳勝のもとへ逃げ込んだが誅殺された。

(きょ)には伍徐が布陣していたが、章邯はこれも粉砕し、伍徐は陳勝のもとへ落ち延びていった。



伍徐を破った章邯は、遂に陳に到達した。

章邯は即座に陳を攻撃し、勝ち目は無いと考えた陳勝は城外へ逃れた。

この戦いで、上柱国(総理大臣)の蔡賜(さいし)が戦死し、孔子本家を継いでいた孔鮒も戦死した。

章邯は攻撃の手を弛めず、陳の西方に布陣していた張賀の軍を攻撃した。

陳勝は張賀の軍を自ら励ましたが大敗北を喫し、張賀は戦死した。

陳勝はさらに逃げ、下城父(かじょうほ)まで逃げたが御者の荘賈に殺された。



こうして遂に章邯は、秦の天下を大混乱に陥れた反乱軍首謀者陳勝を殺した。

20万の刑徒を督励して反乱軍を徹底的に抑えた彼の戦ぶりは、名将と呼ぶにふさわしい。


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