第一話:九卿少府の文官 秦の始皇帝は中国大陸を統一し、官僚組織による法治国家を創りあげた。 その元締めとして左右丞相・太尉・御史大夫の下に、九人の国務を司る大臣を置いた。 奉常・郎中令・衛尉・太僕・廷尉・典客・宗正・治粟内史・少府で、俗に言う九卿である。 今回取り上げる章邯(しょうかん)という人物は、九卿の末席である少府を務めていた。 彼は生粋の政治家、いわゆる文官であった。 ********* ********* ********* 始皇帝は法思想だけで大陸を支配し、人民をあまりにも酷使しすぎた。 二世胡亥が皇位を継承した頃には、各地で反乱が起き収拾がつかなくなる程であった。 反乱軍首領では、陳勝が楚王、武臣が趙王、魏咎が魏王、田が斉王を自称し、 さらに劉邦が沛で挙兵し、黥布・項梁も挙兵した。 自称王も、ただの首領も、最大勢力であった楚王陳勝を盟主と仰ぎ続々と傘下に入り 反乱軍は数十万人に膨れあがった。 孔子の直系の子孫であった孔鮒も陳勝の下に馳せ参じ博士に任命された。 物凄い反乱規模である。 少府を務める章邯は、これらの反乱軍の動静を誰よりも知っていた。 少府は山沢地の税金を司る官であった為、どこの沼沢地で税収入が途絶え、 どこの山岳地帯で税収入が途絶えていたかを知ることができたのである。 が、暗愚の二世皇帝に反乱が起きていることを言おうものなら首が飛んでしまう。 二世は「天下は朕の威光で安らかである。」と狂信しているからである。 みな宦官趙高の専横のせいなのだが・・・。 ********* ********* ********* ********* ********* 反乱軍盟主の陳勝は配下の周文に数十万の兵を預け、秦の都咸陽に向かって進軍させた。 この周文という人物は陳に住む老人であったが、 かつて楚の春申君黄歇に仕えたことがあり、さらには名将項燕に軍中で近侍していた。 しかし、武官ではなく視日(しじつ:日時の吉凶を占う人)としてであった。 視日ではあったが彼には才能があり、陳の町では賢老人として崇められていた。 周文は数十万人の混成軍をなんとか纏めあげ、道中各地の反乱軍を吸収し、 函谷関に到達するまでに、戦車1000台、兵卒数十万にまで反乱軍を膨張させた。 一応、自作 ^-^;; 地図を見ても分かるように、 函谷関は険阻な山に挟まれ自然の要塞を成している。 この天嶮を抱えていたからこそ秦は天下統一できたといえる。 しかし、周文率いる数十万の反乱軍はアッサリとこの函谷関をぶち破った。 そして、さらに進軍を続け、渭水のほとりの戯まで軍を進めた。 秦政府は事態の深刻さにようやく気付き、 二世胡亥も大いに焦り、初めて群臣に相談した。 「どうしたらよいだろうか。」胡亥って・・・・バカ? 群臣は宦官趙高を恐れ、思い切って発言する者はいなかった。 が、章邯が末席から発言した。 「盗賊どもはすでに我が都に迫り、大部隊で強力であります。 今となっては近県の兵を招集しても間に合わないでしょう。 先帝(始皇帝)の陵墓の山(りざん)では、 20万人以上の刑徒・賦役の者・奴隷の子弟が働いております。 彼らを赦免して解放してやり、兵器を与えれば今すぐにでも出撃できます。」 この案には、趙高も二世胡亥も驚いた。 しかし趙高にしてみれば、章邯が失敗したら政敵が自滅するだけであり、 胡亥にしてみれば、少府の代わりはいくらでもいるわけで、 二つ返事で章邯の案は認可された。 末期的症状の政府首脳部が章邯に幸いしたのかどうか・・・。 こうして章邯は文官としての穏やかな人生を捨て、秦帝国再生へ命を賭けることとなった・・・ |