第八話:萬世にわたる功績


紀元前202年、ついに劉邦は項羽を倒し天下を手中に収めた。

そして家臣達の功績を査定し封地を与えることとなったが、

武臣達はみな自分の武功を誇り、一年経ってもすべては決定できなかった。

劉邦は心の中では蕭何の功が最高であると思っていたので、蕭何を6000戸の(さん)侯に封じた。


6000戸と言われても、どれくらいの収入があるかピンとこないのだが、

『史記』貨殖列伝によると、1000戸で20万銭の年収があったと記されているので、

6000戸だと単純計算すると120万銭の年収があったことになる。



は荊州南陽郡に属し、家屋が約47000戸もある南陽郡の中心都市の宛の近くでもあり、

非常に豊かだったと思われる。


余談になってしまうが、この南陽郡の風俗について『漢書』地理志では、

「秦は韓を滅ぼしたあと、天下の無法者を南陽郡に流罪にした。

よって南陽郡の住民は驕慢で気力を尊び、商い・漁業・狩猟をし、

隠し事をする為に非常に制御しにくい。」とボロクソに書かれている。(^-^;;


この劉邦の決定を聞いた武臣達はみな憤って言った。

武臣達 「私どもは鎧を着て武器を手に取り、多い者では百回以上の合戦を経験し、

少ない者でも数十回の合戦を経験し、城を攻め取り、地を奪いました。

しかし蕭何は馬に乗って戦場を駆けることもなく、

手に文書を持ちいたずらに論議をするだけで、戦には加わっておりません。

それなのになぜ私どもより蕭何の方が位が上なのでしょうか。」

劉邦 「ははは。君たちは猟をしたことがあるか?」

武臣達 「もちろんありますが・・・?」

劉邦 「では猟犬も知っているな。」

武臣達 「はい。しかし、猟と私どもと何か関係があるのですか・・・?」

劉邦 「そもそも猟をする時、兎や鹿を追いかけて殺すのは猟犬の役目だ。

しかし持っている綱を解き放ち、猟犬に獲物の場所を知らせるのは人間だ。

今、君たちは逃げる獲物を追いかけただけで、功は猟犬の功に過ぎない。

しかし蕭何は我々に行くべき方向を知らせ、功は人間の功だと言える。

しかも蕭何の一族数十人がワシに付き従ってくれた。この功を忘れることはできぬ。

君たちは、たった一人でワシに付き従っただけじゃないか。

この蕭何の功績、知らぬとは言わせぬぞ。」

武臣達 「・・・・・・・。」

こうして、劉邦は気の荒い武臣達を黙らせた。


その後、列侯に与える土地がすべて決定し、列侯の順位を決めることとなった。

武臣はみな、「平陽侯の曹参は身に七十の傷を受け、城を落とし地を奪い、

功績は最高です。列侯第一位に置くのが当然と思われます。」と主張した。

劉邦は功臣達を黙らせ、蕭何にも封地を多く与えたので、

列侯の順位についてはもう文句はつけないつもりだったが、

心中蕭何を第一位にしたいと思っていた。


ちょうどそのとき、関内侯(封地が無い、位だけの侯)で謁者(接待係)の鄂千秋(がく・せんしゅう)が進み出て言った。

鄂千秋 「群臣の議論は全部誤りです。←オイオイ。言い過ぎだろ

曹参には戦争で活躍したという功績がありますが、それは一時のものです。

お上が項羽と対峙されること五年、漢軍は何回も散り散りとなり、

たった一人で逃れられたこともありました。

しかし、蕭何はいつも三秦・漢中で兵を徴募・派遣して漢軍を立て直しました。

しかも陽で項羽と数年間対峙したとき、漢軍には兵糧が不足していましたが、

蕭何は船で兵糧を送り続け、遂に我々は勝ちました。

陛下は何度も函谷関以東の地を失いましたが、

蕭何は関中の地をよく保ち、陛下を待っておりました。

これこそ万世にわたる功績と言えましょう。

今、曹参らを何百人失ったとしても、漢にとっては損失にはなりません。おいおい極論だなぁ

そして曹参らを何百人得ても、国が必ずしも安全になるとは限りません。

一時の功績しかない曹参を、万世にわたる功績を持つ蕭何の上に置こうとするのは

まったくの誤りです。

蕭何が第一位で、曹参はその次です。」

劉邦 「よく言った!その通りである。」

そこで、劉邦は、蕭何を第一位に据え、様々な特権を与えた。

特権とは、蕭何が宮殿に入る際に剣を帯びてクツを履いたままでよいということと、

参内する際に小走りをしなくてもよいということだった。

これは「趨」という宮殿内の礼儀らしいのだが、

劉邦は蕭何を礼儀の外に置き、その優遇ぶりを表したと言える。
・・のかな?


そして、劉邦は鄂千秋を褒め称え、こう言った。

「ワシは、賢人を推挙すれば高い賞を受けると聞いている。

蕭何の功績は高いが、鄂君の発言でますます功績が明らかになった。」

そして鄂千秋を2000戸を領有する安平侯に取立て出世させた。(下に安平侯鄂家の系図を載せておきます)


また、同日に蕭何の父・子・兄・弟にそれぞれに領地を与え、

蕭何にも2000戸の加増があった。

蕭何は合計で8000戸の大領主となったのである。

この加増は、かつて亭長だった劉邦が、人夫を咸陽まで送り届ける仕事を請け負ったときに

皆、餞別として三百銭を贈ったが、蕭何だけは五百銭出してくれた恩に報いたのである。←第二話参照



こうして侯蕭何は位人臣を極めた・・・。



安平侯鄂家系図



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