第二話:劉邦党の党首に
呂雉を正妻に迎えた劉邦だったが、放蕩生活を改めようとはせず、
呂氏を実家に預けては沛の街をうろついいていた。
実家では劉邦に対する嫌悪を呂氏が一身に受けることとなってしまい、
特に嫂にはひどく虐められ苦労が絶えなかった。
さらに劉邦は沛で曹氏という女性と浮気をし、劉肥という子どもをつくってしまった。
そして盗賊や人殺しを匿ったりしたので、ついに泗水郡役所にマークされる人物となってしまった。
蕭何は下級事務官から昇進して泗水郡の副官になっていたが、
郡の会議で「盗賊・犯罪者の撲滅週間」が決められると、密かに劉邦にその情報を漏らし、
泗水郡から出てほかの郡へ身を隠すように仄めかした。
このため、ブラックリスト上位に載っている劉邦はいつまでたっても捕まらなかった。
劉邦は他郡へ身を隠しているときはいつも困窮したが、蕭何らが金を送ったので何とか食っていけた。
その後しばらくすると、蕭何は泗水郡守にたびたび劉邦を推薦し、
なんと犯罪者すれすれの男を亭長(交番のオジサンの役割と官設の宿場の役割を担う)に就けてしまった。
この経緯ごり押し?を知るには、蕭何の裏の顔を知る必要がある。
実は蕭何は泗水郡では隠然たる勢力を持っていたのである。(本人は気付きもしなかっただろうが)
秦には厳しい税徴収や役があったが、蕭何は泗水の人々にとって最小限の負担になるよう苦心し、
いつのまにか人々に慕われていたのである。
蕭何の生真面目さ、純粋さが、いつのまにか蕭何を顔役に押し立てていたのである。
そうした蕭何の要求を押しのけるほど郡守は馬鹿ではなかった。
ちなみに楚漢動乱期では、こうした人物は二人しかいない。
楚の上柱国(宰相)になった陳嬰と蕭何だけである。
陳嬰にいたっては、蕭何の上をいく謙虚さで、
反乱軍首謀者に担がれそうになると散々逃げ回ったあげくに母親の元に逃げ込んでいる。
むむ、またまた話がそれている・・・^^;;
劉邦は亭長になると、その人相のよさが噂となって広まった。
これには、どうも蕭何が一枚噛んでいるらしいのだが・・・。
噂の内容は以下の通りである。
ある日、呂雉が二人の子どもと農作業に精を出していると、あぜ道を見慣れぬ老人が通りかかった。
老人は「水をくださらんか。」と言ったので、呂雉はこの老人に食事を出した。結構気の利く女性だったんだ・・・
老人は別れ際に、「奥さん、あなたの顔は天下の貴相だ。」といった。
呂雉は「まあ、ほんとうかしら♪^ゝ^」と喜び、息子と娘も診てもらった。
老人は嘆息して、「奥さんが貴人になるのは、この息子さんのお蔭だな。」と言った。
老人は礼を言って立ち去った。
ちょうどそこへ劉邦が現れた。
呂雉は嬉々として老人の話を劉邦に言うと、劉邦は駆け出して老人のあとを追った。
老人は劉邦の顔を見ると、「先ほどのお三方の高貴さは、あなたに因んでいますな。
あなたの貴相は言葉では言い表せません。」といった・・・。
管理人はココのくだりを読むと、どうも蕭何が故意にこの噂を広めたような気がしてならない。
もしくは似たような事実はあったが、蕭何がそれを潤色して流布したような気がする。
管理人の邪推はいいとしよう。
蕭何はいつのまにか積極的な劉邦党になっていた。
亭長の職務がスムーズに行えるよう、いつも過分なほどに劉邦を援助していた。
そんなある日、劉邦にイヤな仕事が廻ってきた。
始皇帝陵を作る人夫を咸陽まで送り届ける仕事が来てしまったのだ。
はるか彼方の咸陽まで行くのである。当時は治安も悪く、この仕事は困難であった。
人々は劉邦に餞別を贈った。
皆、三百銭を贈ったが、蕭何だけは五百銭出した。
劉邦は蕭何の心配りに感激した。
劉邦は人夫数百人を率いて泗水郡を出た。
劉邦は始めからやる気が無く、統率者としては失格であった。
駆り出された人々は、始皇帝陵での仕事を恐れ(仕事が終わったら生き埋めにされるという噂があった)
初日に数十人の脱走があった。
が、劉邦は「まあ、逃げるのも当然だ。」と深くは追及せず、数日後には脱走者は百人を超えた。
この勢いだと、咸陽につく頃には劉邦一人になってしまうだろう。
劉邦は「あ゛ー、こんな非情な仕事ができるか!もうやってられん!!」と開き直った。
そこで蕭何らに貰った餞別と公費を使い込んで酒と肉を大量に買いこみ、
皆で盛大に飲み食いしてしまった。
そして大声で告げた。
「お前たちは何処かへ去れ。俺もここから逃げる。」
劉邦は逃亡して山沢地に隠れ住んだ。
蕭何はこの噂を劉邦党の仲間から聞き、頭を抱え込んだ。
劉邦は郡をあげて捕えるべき重犯罪者となってしまった。
こんなに公然と逃亡されては、いくら蕭何といえども救えないのである。
そこで蕭何は、沛の街で密かに劉邦を支援するグループを結成させ、
彼の潜む沼沢地へ食料を提供させ、さらにそこで勢力を蓄えさせようと考えた。
秘密党員のメンバーは、呂氏・盧綰・周勃・樊・任敖・審食其・夏侯嬰・曹参・灌嬰らであったが、
彼らは命懸けで農民を説得してまわった。
農民は秦の重税に苦しんではいたが、「蕭何さんが言うんだから間違いない。」と劉邦支援へ動いた。
さらに蕭何は、迷信深い当時の人々の心を動かす噂をどんどん広めた。
道を塞ぐ大蛇を斬ったら、そこで老婆が泣いていて、
「白帝の子(秦のこと。秦は昔から白帝を祀っていた。)が赤帝の子(劉邦のこと。五行説でいうと劉邦は赤らしい)に斬られました。」
といった逸話や、
始皇帝が「東南に天子の気がある。」と言ったところ
劉邦が「それは自分のことだろう。」と思って逃亡したという逃亡秘話や、大嘘じゃん
呂雉が愛する夫を探し求めて沼沢地に来るときは、劉邦の頭上に出る雲気?を頼りに来るために
迷うことが一度もない、といった噂であった。
現代人の我々には信じ難いことだが、これを聞き及んだ沛の若者達は劉邦に神秘性を感じ、
「劉邦さんにぜひ随身したい。」と志願する者が多かった。
こうして、蕭何のたくらみはすべて的中した。
噂話が広まり、劉邦が畏怖されるようになってきた頃、
蕭何は仕事熱心で業績が常に一位であることから、咸陽に召されて秦中央政府に入ることとなった。
しかし蕭何はこれを辞退し、頑として都には上らなかった。
なぜなら、
天下大乱の予兆が・・・
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