始皇帝が死んですぐ、陳勝らが大規模な反乱を起こした。 彼が陳の街に入る頃には、王を自称するほどの規模になっていた。 その勢いを恐れた近隣各県は次々と陳勝に降伏した。 事態は蕭何の恐れていた通りになった。 |
|
沛は陳に近い。沛の県令は、民衆が自分に背き 勝手に反乱軍を迎え入れてしまうのではないか、 いや、反乱を起こして陳勝に呼応するに違いない、と恐れた。 そこで県令は、自分が率先して反乱を起こして陳勝に呼応しようとした。 しかし、沛の人々がついてこないことを恐れて蕭何を呼んで相談した。 |
陳勝関連地図 |
が、県令は蕭何の本意を知らなかった。 蕭何にしてみれば、この時のために危険を冒して劉邦党を守ってきたのである。 蕭何は偽ってこう言った。 「あなたは秦から派遣された役人です。それなのに秦に叛いて沛の若者を率いようとしておられる。 おそらく沛の若者たちはあなたの命令を聞き入れないでしょう。 どうか沛から逃亡した劉邦をお召しください。 彼は数百人の兵を持っていますので、それをもって沛の若者を脅迫すれば、 この街を自衛するに足るでしょう。」 これを聞いた県令は非常に恐れた。 蕭何には一種独特な勢力があるとは知っていたが、一度もそれをネタにしたことは無かった。 しかし、今回は蕭何自身が劉邦党であると明言したようなものだった。 県令はすぐさま劉邦を呼び寄せた。 県令は蕭何らをさがらせた後、冷静になって初めて蕭何の魂胆に気付いた。 蕭何は劉邦を沛に引き入れて首領にし、自分を消すつもりなのだ、と。 県令はすぐさま蕭何らを捕捉するよう命令をだし、一方では城門を固く閉じるよう厳命した。 しかし、蕭何ら劉邦党の一味はすでに逃げ去っていた。県令が心変わりすると判っていたのだ。 結局、劉邦が沛の城外に到着すると沛の若者らが暴動を起して県令を殺害した。 新しい沛の支配者の座にはもちろん劉邦が座ったが、 ここで蕭何に関する面白い記述がある。 『史記』高祖本紀には、「蕭何・曹参らは、みな文官であって自愛し、 事が成就しなかった場合、秦が自分の一族を皆殺しにすることを恐れて ことごとく沛公の座を劉季に譲った。」とある。 この箇所を読むと、 「本人がその気なら、蕭何が首領になってもよかった。」とも取れるのである。 しかし、敢えて蕭何らが劉邦を推したために、沛の人々は劉邦を首領にしたのだ。 意外である。 蕭何は劉邦のために沛県から兵を集め、その数は三千人にのぼった。 劉邦は蕭何を丞(じょう:補佐役)に任命した。 |