第六話:大勢力を築く


蕭何の推挙した韓信は南鄭から出撃し、三秦を平定し劉邦を迎え入れた。


蕭何は南鄭に残り、率先して民を鎮撫して穏やかにし、農業に従事させた。

蕭何は漢中の後背地にあたる巴蜀の肥沃さを知っていたので、

巴蜀の異民族に信頼されていた范目(はんもく)と協力し[1]、巴蜀を漢の統治下に置いた。

そして、税金を収入の1/15とし秦の煩瑣な法を廃止し、多くの禁令を廃止した。

巴蜀・漢中からあがってきた穀物税金のほとんどは三秦に出撃した劉邦のもとへ転送した。


(  [1]この范目なる人物は『史記』には記載が無く、

巴蜀を含む西南地方の経済・社会・歴史・地理・民族を記した『華陽国志』に登場する。

「范目は謙虚で憐み深く、策略に長けており、先を見通す目をもっていた。

彼は劉邦が天下を取るだろうと見て、自ら異民族を率いて投降した。

彼が率いていた異民族は中の部族と「板楯蛮」と呼ばれる部族であり、

非常に勇猛で好戦的であった。常に漢軍の先鋒となり、劉邦を喜ばせた。」とある。
  )



蕭何が巴蜀・漢中の整備を終えた頃、ちょうど劉邦が項羽の本拠地彭城を攻めることとなり、

三秦の留守を息子の劉盈(後の恵帝)に任せることにした。

劉邦は蕭何を南鄭から呼び寄せ、三秦・巴蜀・漢中の政治を全て任せた。

蕭何の統治下にあった地は、現在の四川省・甘粛省・陜西省にわたり、

東西1000Km南北800Kmにまたがり、その領地は項羽よりも広く、

あたかも蕭何は強国の君主になった観があった。


蕭何は秦の法を改変し、法九章(盗・賊・囚・捕・雑・具・戸・興・廏)を発布施行した。

そして漢の宗廟(祖先を祀る廟)・社稷(土地の神と穀物の神を祀る廟)・宮殿などを整備し、

県邑制度を定め、三老(50歳以上の民の中から郷里の指導者を定めて村落運営する)の制度を実施し、

元秦の国有地だった土地を農民に開放して耕作させた。

また咸陽で入手した戸籍簿を元に三秦・巴蜀の戸籍を調査して国家財政を整え、

二年分の田租を免除し、民に爵位を与えた。


蕭何は一つ一つの政策において東方にいる劉邦に許可を求め、許可がおりてから実行した。

許可を求めるほどではない事柄であっても、文章化し劉邦に報告した。


しかし蕭何の血の滲むような努力にもかかわらず、この年は穀物の不作から大飢饉が起こり、

人が人を食いあい死者が人口の半分にまでのぼる事態に陥った。

報告を受けた劉邦はこれを非常事態とみて、親が子を売って食にありつくことを許可した。

この苦肉の策は、現代の倫理観から言えば言語道断であるが、

現代の道徳観・倫理観で紀元前の中国を語るのは愚の骨頂であるのでやめておこう。


が、蕭何の努力が実ったのか翌年は豊作となり、危機的状況を脱した。



こうして見てみると、蕭何がその気であれば韓信のように自立して

西方における大勢力になりえた。

が、蕭何は身を慎み、劉邦に一身を捧げたのである。

己を知っていた賢人と言えるであろう。



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