『史記』とは |
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「『史記』って一体なんですか?」という方もいらっしゃるでしょう。ここではそんな方も含めて『史記』に興味を持たれた方全てに『史記』の意義や成立背景を知っていただければ、と思ってこのコンテンツを作りました。 『史記』は前漢武帝の頃の人、司馬遷(しば・せん。字は子長)が書き記した歴史書です。『史記』は、「左国史漢」と呼ばれるように、『左氏伝』『国語』『史記』『漢書』と並び称され、中でも『史記』『漢書』は史書の首位に置かれました。 |
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司馬一族 | |
司馬遷の家は、はるか古代の周の時代から歴史を司る家でした。のちに一族は離散し、ある者は秦へ、ある者は衛に、ある者は趙へ住みつきました。衛国に住んだ司馬喜は宰相になりました。趙に住んだ司馬凱は剣術の一派を開き、武術の家として栄えました。この子孫に司馬(しばこう)がいます。彼は兵を率いて項羽に従い殷王に任命されました。後に劉邦に降り河内郡に領地を貰い、代々そこを領地とし一族は栄えました。その直系の子孫に三国時代を終わらせ晋を建国した司馬炎がいます。かなり長く続いた家といえます。秦に住み着いた一族は秦国の製鉄を管理する役人となりました。その子孫に司馬談(司馬遷の父)がいました。司馬談は前漢武帝に仕え、太史令(天文と暦法を司る)になりました。彼は武帝の封禅の儀式に参加できなかったことを怨み怨んで死にました。司馬談は現世を憂いて歴史書を書こうと思っていましたが、書き始めてからすぐに死にました。これを元にして子の司馬遷によって書き上げられたのが『史記』です。司馬遷の子孫は王莽の頃まで存在が確認されています。(管理人の知識では) |
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『史記』 | |
「史記」は、歴史書というよりも壮大な歴史小説と言えるでしょう。なぜなら司馬遷は誰かに命令されてこの書を書いたわけはなく、自分の意志でこの130巻526500字の歴史書を書き上げたからです。真の私纂の歴史書といえます。 司馬遷(紀元前145年〜紀元前86年?)は父と同じく太史令となり前漢武帝に仕えました。あるとき司馬遷の友人だった李陵(りりょう)が、匈奴(きょうど:北方異民族。度々中国に侵入し略奪の限りをつくし人々を苦しめた)に降伏してしまう、という事件が起こります。武帝は怒り、李陵の家族を皆殺しにしようと家臣に罪を決めよと命じました。この時、君主の気持ちにへつらい李陵を悪し様に罵る者が多数いました。独裁者武帝の家臣ですから当然のことだったかもしれません。しかし司馬遷はただ一人、武帝の前に進み出て意見を述べました。 「李陵は五千の寡兵をもって匈奴の八万の強兵を何度も撃破し、数万の匈奴兵を殺しました。これは賞されるべき戦ぶりです。しかし遠い蛮地の奥深く、李広利将軍(匈奴討伐総司令官)の援軍も無く、刀は折れ、矢は尽き、兵糧は尽き、味方の死体は山と積まれました。しかし李陵が兵達に声をかけると、負傷兵でも立ち上がり、武器の無い者でも匈奴軍に向かって突撃しました。このような李陵が匈奴に心から降ったとは思えませぬ。彼はきっと大きな手柄をたてて匈奴を攪乱し、帝の元に帰参しようと考えているに違いありません。今、群臣は都で妻子と共に安穏と暮らし、保身に汲々としております。逆に李陵は蛮地で戦い不幸にも匈奴に降りました。彼の戦功を再考していただけないでしょうか。」 これを聞いて武帝は怒りました。 「お前は朕の信頼する李広利将軍にケチをつける気か!ゆるせん!」と言い、すぐさま司馬遷を投獄しました。 司馬遷は宮刑(腐刑とも言う。生殖器を切り取られる)に処され、三年間タップリ牢獄に入っていました。この三年間、司馬遷は獄中で何度も自殺を考えたでしょう。しかし、妻や娘の顔、偉大だった父の顔、そして手をつけ始めた『史記』のことが頭をよぎり、自殺を思い留まりました。しかし、またしても悲憤・無力さが彼を襲い、やはり自分の手で命を絶とうと何度も思ったことでしょう。こうした心の葛藤は司馬遷に「天道、是か非か?」という命題を突きつけます。「正しく生きている人は大抵不幸な目に遭い、誤った道を進み罪を犯しても何とも思わない者が幸福になっている。神は不公平ではないか。」と思ったのです。そして司馬遷は、「答えは歴史が証明しているに違いない!」と思い至り、生き延びることを決意します。漆黒の闇に一条の光が差し込んだのです。彼は獄中で『史記』を執筆し始めました。 司馬遷はその後、獄中の自分を励まし続け『史記』の執筆を続け、大赦が出るのを待ち続けました。この時、「人生の苦難のとき、どう対処したかで人生が決まる。」と自分を叱咤し続けたでしょう。そして大赦令が出て三年の獄中生活に別れを告げました。そして、宦官として後宮の中書謁者令(宮中の儀式を司る官)に登用されます。武帝も自分のやったことに後悔し、哀れに思ったのでしょうか。その後も公務と執筆を両立させ、紀元前91年頃に『史記』は完成しました。司馬遷の思いがすべて込められた『史記』は、鋭く時代を斬り、時に冷酷なまでに人間を観察し批評しています。しかし、どんなに救いようの無い人物に対しても優しく接しており、司馬遷の人間愛の精神が窺えます。 こうした歴史哲学が込められたものが『史記』だと思います。 管理人の勝手な私見ですから、司馬遷さんも天国でクスクス笑っていることでしょう。 その後『史記』は司馬遷の娘に託され、長く世に流布されませんでした。劉氏に対して不遜な記述と取られても仕方がない箇所もあり、司馬遷自身も、『史記』がすぐに世に出ることを望みませんでした。 宣帝の時代、外孫の平通侯・楊ツ(司馬遷の娘の子)がこれを世に広め、ようやく『史記』は有名になりました。 |
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長々とお付き合いくださいまして、ありがとうございました。 |
司馬遷年表 | ||
西暦 | 年齢 | 出来事 |
前145年 | 1 | 夏陽県竜門に生まれる。父は司馬談。 |
前141年 | 5 | この頃まで、農耕・牧畜に従事する。 |
前140年 | 6 | 父司馬談が太史令となり、一家は都長安に移住する。 |
前138年 | 8 | さらに茂陵に移住。 |
前136年 | 10 | 師について、古文を暗誦する。 |
前126年 | 20 | この年から二年間かけて中国を旅行。長江・淮水・水・湘水を渡り、呉・会稽・長沙・武陵などを旅する。帰途、泗水を渡り、斉・魯で学問し孔子の遺風に触れる。薛・彭城では乱暴な人たちと度々出会い、苦難に遭った。 |
前124年 | 22 | 郎中として武帝に仕える。李陵と知り合い、親交する。 |
前111年 | 35 | 郎中の身分で西南夷の鎮撫に赴く。西南夷とは、後に諸葛亮が南伐して孟獲を七擒七縦したところである。 |
前110年 | 36 | 洛陽で父司馬談死す。歴史書を完成させるよう遺言される。 |
前109年 | 37 | 武帝に付き従って、黄河の堤防決壊の修理工事に参加する。 |
前108年 | 38 | 太史令となる。 |
前104年 | 42 | 公孫卿、壺遂らと共に太初暦を定める。『史記』執筆開始される。 |
前99年 | 47 | 匈奴に降伏した李陵を弁護して武帝の怒りに触れ、投獄される。 |
前98年 | 48 | 宮刑に処され、去勢される。この頃、獄中で『史記』執筆開始か? |
前96年 | 50 | 大赦で出獄。中書謁者令に任命され、武帝に信任される。 |
前93年 | 53 | 死にゆく友、任安に宛てて、自分の志をはっきり述べた「任少卿に報ずる書」を書く。 |
前91年 | 55 | この頃、『史記』完成。 |
前86年 | 60 | この頃、司馬遷死す? |