『史記』の著者・司馬遷の思い


ここでは、司馬遷の手紙「任少卿に報ずる書」を紹介して、司馬遷の人生観とやらを勝手に考察しています。


「史記とは」で、司馬遷が宮刑に遭ったと述べました。彼は、友人を弁護しただけで罪に落とされました。
もし彼の家に莫大な金があれば、それを罰金として払い平民に落とされるだけで済みました。権力抗争に負け、罪を着せられた多くの政治家達は大金を積み刑を逃れています。それは今も昔も変わらぬ光景・・・。
彼はなぜ生きている価値が無いほどの刑を受けたのにも関わらず、生き長らえたのでしょうか。
彼の心境を表す手紙が残っています。有名なので、もう知っておられる方もおいででしょう。任安
(じんあん)という、連座で死刑になる友人にあてた手紙です。それを要約して紹介します。

あなたは昔、私に、「なぜ賢士を帝に薦めないのか、それがあなたの勤めではないのか?」と、手紙をくれましたよね。でも私にはそんな資格はありません。なぜなら、私は人間の数に入らぬ者だからです。
性器を切り取られるより大きな恥辱はない、と昔から言われていますよね。こんな恥さらしの人間がどうして政治に参加できましょう。
任少卿は、なぜ私がこんな屈辱の中で生き永らえているか知っていますか?
私は早くに両親を亡くし、兄弟もいません。私は孤独です。だから妻や子を大切に思い、死ななかったとでもお思いですか?妻や子供は勿論大切ですが、死ななかった理由は別にあります。
勇気ある人はいつも節義を守って死ぬとは限りません。しかし臆病な人でも節義を慕えばどんなことでも出来ます。私は弱虫ですが、身の進退はよくわきまえているつもりです。
私が糞にまみれて生活を続けているのは、私の心の中にまだ出し尽くしていないものがあるからです。「死んでしまえば父と私の著作が世に残らない。」ということを恥じたからです。
この世で巨万の富を築き権力を思いのままに操った人でも、時間が経てばその人の名前は消えてゆきます。「書」だけが世に残るのです。西伯
(周の文王)は拘留されてから『周易』を著しました。孔子は、どの国にも受け入れられず漂泊の旅に窮して『春秋』を極めました。楚の屈原は追放され『離騒』を詠みました。孔子の弟子の左丘明は失明して光を失ってから『国語』を著しました。孫子は足斬りの刑を受けてから『兵法』を編みました。呂不韋は蜀に左遷されてから『呂氏春秋』を編纂しました。韓非子は秦に幽閉されてからあの『韓非子』を著しました。
これらの人々には、心に鬱するものがあったのです。そして、その鬱したものを吐き出すために書を著したのです。そしてその書の中で、我が志を未来の人の為に示そうとしたのです。
左丘明は失明し、もう人間としては使い道がありませんでした。孫子は膝から下を切られ、もう人間としては使い道がありませんでした。だから彼らは書を著し自分のやり場の無い怒りをなだめ、自分の志を書の中に表現しようとしたのです。
私は亡父から継いだ歴史書の編纂を始めてすぐ、屈辱の宮刑に遭いました。ただ私は、著作の未完成を惜しむがためにこんな屈辱を耐えているのです。この作品が世に流布され後世に残ったなら、私は何万回刑にあおうとも悔いはしません。
私は友人を弁護したために禍に遭い、郷里の人々や同僚にも笑われ、先祖を辱めました。私はもう父母の墓に参る面目もありません。何百年たっても私の恥は増えていくばかりでしょう。この恥を思うと、はらわたがねじれる思いでとても苦しいです。この恥を思うと、いつも満身汗だくになってしまいます。
こんな恥さらしな私に、賢人を推薦することができるのでしょうか・・・?
私は、罪に対する弁解はしたくありません。誰にも信じてもらえず、恥がますます増えるだけです。
私が死に、何年も経ってから私の生き方が良かったのか悪かったのかが決まるのでしょう・・・。


司馬遷の人生、執念の一言では片付けられない人生ですよね。私たちは彼の苦悩・悲哀の一割も理解できません。でも、彼の苦悩や悲哀が歴史を書く原動力になったことは確かです。「死して後、止む」ではなく、「死してのち、始まる」ということを司馬遷は知っていたのでしょう。
くだらない意訳と愚見を書いてしまいました・・・。


長々とおつきあいくださいましてありがとうございました


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