第十話:劉邦の下で・・・ |
張耳は、劉邦に暖かく迎え入れられた。 その後、劉邦は元秦の地を攻め落とした勢いで項羽が留守にしている楚の本拠地を攻めることにした。 劉邦は味方を少しでも多く集めようと思い、 代・燕・趙・魏・斉などの反楚姿勢をとっている国に檄文を飛ばした。 効果てき面、ほとんどの国は漢の劉邦に味方した。 が、陳余が実権を持つ趙は条件をつけてきた。 その条件とは、 「漢王の下にいる張耳の首を趙に届けてくだされば、漢に味方しましょう」 というものだった。 もちろん、陳余が出した条件である。 劉邦は、張耳を大切にしていたので、殺すつもりは無かった。 代わりに、張耳によく似た死刑囚の首を斬り、趙に届けた。 陳余「ほほう。張耳は殺されたか。どれどれ、顔を確かめるか・・・。おっ、・・・・張耳だ。 奴とは色々あったがな・・・・。まあいい。これで漢王の誠意を確かめることが出来た。 漢に味方して、楚を攻めよう」 こうして、趙軍は、漢軍に従って楚を攻めた。 漢軍は楚の本拠地を一度は覆したが、項羽が急を聞いて駆けつけ、 あっという間に漢は大敗北した。 劉邦の直属軍以外は、みな楚に降伏した。 項羽も、降伏した数十万人をすべて生き埋めにするわけにもいかず、 数十万を配下に加え、漢軍を追う命令を下した。 漢軍と楚軍の勢力は一気に逆転した。 そしてこのあとすぐ、張耳の首がニセ首であることがばれた。陳余はさらに張耳を憎んだ。 二人が干戈を交えるのは必至だった。 漢の名軍師張良(ちょうりょう)は起死回生の策を立てた。 名将韓信に独立した別働隊を率いさせ、項羽に属している魏・代・趙・斉・燕を攻めるという策だった。 韓信は敗残の漢陣営を離れ、まず、漢に背いた魏を討った。 魏軍は韓信の巧妙な策略にかかり、四散した。 韓信は休まず、代(陳余が陰で支配する小国。陳余から派遣された夏説が支配者)を攻め落とした。 韓信は魏国代国を手に入れた。次は陳余が実権を握る趙である。 韓信が代を攻める少し前、韓信の下に張耳が派遣されることになった。 張耳は趙では名士で通っていたし(常山王になった時期もあった)、任侠の大親分でもあったので、 彼の影響下にある趙国の要人は多かった。 そういう事情から、彼は韓信配下の将軍に任命された。 張耳の工作で、趙の布陣・首脳部の意見は、韓信に筒抜けであったであろう。 一方、陳余は儒者であり、軍人ではなかった。 趙には李左車(りさしゃ:広武君の称号を貰っていた人。後に韓信の師父になる)という知恵者がいた。 彼は必勝の策を趙王に献じたが、陳余に遮られた。 李左車「井ケイ(せいけい:道が切り通しになっているところだった)の難所さえ塞いでしまえば、 韓信は立ち往生するしかなく、その間に私が食糧部隊を奇襲すれば、 韓信軍を枯れさせてしまうことができます・・・・・・」 陳余「あいや、李左車どの、待たれい。あなたの策は奇襲ですな。 それはよくない。正義に反する。(?) 兵書にも、味方が敵の二倍の兵を持っているならば進んで戦う、と書いてあるではないか。 今、我々は韓信の軍の十倍の兵を持っている。 奇襲などを用いれば、他国は趙の軍隊を侮り、これから度々侵略を受けることとなろう。」 李左車「・・・・・・・・・」 結局、実力者陳余の意見が採用され、趙軍は平地に布陣した。 この戦いで、韓信はかの有名な「背水の陣」を敷いた。 陳余はいつも正義を標榜し、騙し討ちは嫌っていた上、(張耳を見殺しにしかけたりして、かなりいい加減なことしてきたのに・・・) 全く軍事のわからない人だったので、見事韓信の策に嵌まった。 陳余は捕らえられ、張耳と韓信の前に引き出された。 韓信「張耳どの。どうなさる。斬りますかな。それとも彼との旧誼を暖めますかな。」 張耳「軍法によれば、彼の罪は‘斬’に当たります。」 韓信「そうだな。・・・・・斬れ!!」 陳余の首は落ちた。儒冠をかぶったまま・・・。 権力の魔力に見入られた者の、哀れな最期だった。 張耳は、かつての刎頸の友をどんな気持ちで見送ったのだろうか・・・・・。 その後、張耳は再び趙王に立てられた。その二年後、張耳は亡くなった。 ちょうど、項羽が敗死した年だった・・・・・・。 |