附記:張氏、その後 |
張耳は死に、景王とおくりなされた。趙王の位は息子の張敖が継いだ。 そして劉邦と呂后との間にもうけられた長女である魯元公主と結婚した。 張敖の前途は輝かしいものに見えた・・・。 中国を平定した劉邦は、紀元前206年、中国北方を騒がす匈奴(きょうど:騎馬民族系)の討伐に自ら出向いた。 しかし、匈奴の王である冒頓単于(ぼくとつぜんう:単于は王のこと)は劉邦の軍事能力を遥かに超えていた。 彼は巧妙に精鋭を隠し、漢軍をそれとなく山上へ誘導した。 もちろん漢軍はまったく気付かない。 山へ登り切った後、劉邦は愕然とした。四面、全て匈奴の兵である。謀られたのである。 しかし、鬼謀の人・陳平の策で死地を脱し、劉邦は無事帰途につけた。 漢軍はその帰途、趙の地を通った。 趙王になったばかりの張敖は、「そそうがあってはいかん!」とばかりに、 熱心に皇帝劉邦を接待した。 劉邦は、匈奴との戦に負けたこともあり、気が立っていたが、 張敖が婿としてうやうやしくへりくだり礼儀を尽くしたので、 つい劉邦も気が大きくなり調子に乗り、ぺろっと地が出てしまった。 劉邦は、足を投げ出し、無頼漢の頃の乱暴な言葉使いをし、傲慢な態度をとった。 「うんうん。張耳さんもいい息子を持ったな。わしもこんな男を婿に持てて嬉しいぞ。わはははは」 趙の大臣の貫高(かんこう)と趙午(ちょうご)は、これを見て怒り、張敖に進言した。 「あの劉邦とかいう男は、昔、我々と同輩でした。あなたの父上さま(張耳のこと)の食客だったのです。 我々は、あの男をよく知っています。 あの男は昔、素寒貧で、好色で、嘘つきだったのです。 今、あなたさまは婿としてうやうやしく礼を尽くされましたが、 奴は足を投げ出し、甚だ無礼な態度でした。我々は辱めを受けたのです。 どうか、我々に、劉邦暗殺の命を下してくだされ」 張敖は非常に驚いた。 「そんな間違ったことは言わないでくれ。 今の張家があるのは、高祖さま(劉邦のこと)のお蔭じゃないか。 昔、父上が陳余に攻められ国を失った時、助けてくれたのは高祖さまだったじゃないか。 君たちも覚えているだろう? 今の私があるのは、高祖さまのお蔭なのだ。もう、二度とそんなことは言わんでくれ」 貫高と趙午は、張敖の謙虚な心に感動した。 その後、貫高と趙午とその一派は密談した。 「王さまの言うことは正しい。これは我々の間違いであった。 王さまは、温厚な長者で、恩を忘れず徳義に背かない人だ。 しかし、劉邦に辱められたことには変わりない。王には内緒で、我々だけで奴を暗殺しよう!」 しかし、こんなずさんな計画が漏れない訳がなく、^^; 趙王張敖と貫高・趙午らは全員捕らえられた。 しかし、かつて張耳に世話になった人達は捕まるよりは、と争って自ら首を刎ねた。 貫高だけは張耳の息子の張敖が気がかりで自刎せず、張敖と一緒に長安まで連行された。 長安での取り調べは、壮絶なものだった。 焼きごてで体を刺し、何千回もムチで体を打ち、痛めつける場所が無くなるぐらい拷問をしたが、 貫高は、「張敖さまは無関係だ。我々だけの計画だ。張敖さまは関係ない!」 としか言わなかった。 劉邦の妻・呂后は、婿が捕らえられ自分の娘が哀れで 「あなた。婿どのが暗殺など企てるわけがないじゃないですか」 と、説得しようとしたが劉邦は全く耳を貸さなかった。 そんな時、泄公(せつこう)という劉邦の側近が、 「私は彼と同郷で、彼をよく知っています。彼は趙国では義侠をもって有名で、立派な人物です」 と進言した。 劉邦は、「じゃあ、お前が取り調べをしろ」と命じた。 泄公は内心嬉しかったであろう。友人の貫高を助ける機会が巡ってきたのだ。 泄公は、貫高から事情を聞き、彼の話が嘘ではないことを信じた。 泄公は劉邦に詳しく貫高の話をし、 あわせて痛めつける場所が無くなるぐらいの拷問をしたが、貫高が真実を曲げなかったことを伝えた。 劉邦は元々任侠の出だったので、いたく感動し、張敖を赦した上、貫高をも赦した。 しかし、貫高は断った。 「張敖さまも無罪放免になり、私の責任は果たした。もう、死んでも悔いは無い。 私が、お上(劉邦)を暗殺しようとしたことは事実だ。私はお上殺害の悪名を背負っている。 もし、お上が赦してくれても、何の面目があって生きてられよう。 私は自分に恥じないでいられようか」 と、さわやかに言い、上を向き頚動脈を掻き切って死んだ。 ・・・・・・・・ 張敖は放免されると、呂后のとりなしで宣平侯(せんぺいこう)に封ぜられた。 劉邦は、張耳の食客達は皆立派だと思い、 どこかの大名の家老に抜擢したり、郡の長官に抜擢したりした。 張敖は紀元前189年に亡くなった。(その少し前、紀元前195年には劉邦が死んでいる) 子の張偃(ちょうえん)は、魯国の王に封ぜられた。 異母兄弟の、張寿(ちょうじゅ)は楽昌侯に封ぜられ、 張侈は信都侯に封ぜられた。 呂后の外孫だったからである。(劉邦没後は呂后専制政治となっていた) しかし、呂后が死に、呂一族が粛清されると、張偃の息子3人は、みな廃された。 しかし、劉邦の四男・劉恒が皇帝にたてられたとき張偃は南宮侯となり、張氏の名跡は続いた。 |