当時、游侠(ヤクザの親玉。人の為なら命を捨てた)が幅をきかせ、その勢力は一つの州に渡り、 太守や諸侯でもその勢いを挫くことができなかった。 彼らは、仲間に殉じ法を破る為、公の立場から見れば国を乱す滅すべき存在であった。 中でも符離県の王孟、陳県の周膚、済南郡の氏は勢力が強く、 景帝は彼らを誅滅すべくそれぞれ太守を送り込んだ。 都は済南郡太守に任命され、氏誅滅を任された。 氏は一族を含めて三百余家あり、済南の豪族でもあった。 都は赴任すると、すぐさま氏とその取り巻き、他の游侠の首魁を誅滅した。 その有無を言わせぬやり方に、済南の豪族どもは皆震えあがった。 一年もすると郡では路上の落し物を拾う者もなくなり、 済南郡周辺の郡守らは都を上官の如く畏れた。 都の人柄は、勇敢で高い気概を持ち、公平廉潔であった。 決して自分宛の書の封は開かず、ご機嫌伺いの贈物を受け取らず、 私的な請願や依頼に耳を貸さなかった。 普段から、「自分は親の意思に逆らって仕官した。職をまっとうする為に命を投げ打ち、 節義に死すべき身だ。決して妻子を顧みることはない。」 と公言していたという。 |