第四話:人を呪わば申嘉が丞相となって五年、文帝が死に景帝が即位した。申嘉は引き続き丞相であったが、 景帝は太子時代からのお気に入りだった「智嚢」錯を内史(京師を治める)に任命した。 この錯という男、非常に有能で現実的具体的政策を持った政治家だったが、 人柄に難があり頑固で人の意見を聞き入れることはなかったという。 錯は景帝が閑な時を見つけて意見を直接言上し密議したが、 殆んどの場合受け入れられ、多くの法令が改変された。 また、当時諸侯の勢力が増大し中央政府を凌ぐ勢いがあった。 そこで錯は諸侯の些細な悪事を暴きたて、罪を責め領地を没収した。 確かに誰かがやらねばならないことではあったが、錯のやり方は配慮を欠いていた。 本人は理想目指して一直線だったのだろうが。 九卿らは、錯が度々人払いをして露骨に自分たちを無視したことを根に持った。 丞相申嘉もそうだった。献策が用いられず、錯を憎んだ。 あるとき申嘉は、錯を誅殺する決定的な事実を掴んだ。 錯は内史となってから、利便の為に南向きの壁に穴をあけ二つの門を作っていた。 この壁は高祖劉邦の父、太上皇の廟の外壁であった。 これを知った申嘉は、不敬罪を以って錯誅殺を上奏しようと考えた。 しかし、この動きは錯にすでに漏れていた。 錯は恐れて夜半に参内し、景帝に救いを求めた。 翌朝、申嘉は景帝に錯誅殺を上奏した。 |
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申嘉 | 「内史・錯は勝手に太上皇廟壁に穴をあけ門を二つ作りました。 これは不敬であります。廷尉に命じて錯を死刑に処していただきたい。」 |
景帝 | 「錯が穴を開けた塀は外壁であり、真の廟壁ではない。 それに門を作らせたのはワシの命令でもあるのだ。錯に罪はない。」 |
申嘉は誤った上奏をしたことを景帝に詫びる羽目となった。 丞相府に帰った申嘉は長史(丞相の属官)に言った。 「奴を先にたたき斬ってから上奏すべきであった。 若造に先を越され、まんまとしてやられたわい。」 これ以来、申嘉の体調はすぐれず最期は血を吐いて死んだという。 結果論ではあるが、文帝が世を去ったとき、 申嘉もまた丞相の座を去るべきだったのかもしれない。 司馬遷は言う。 「申嘉は剛毅であり節義を守る人であった。 しかし学識はなく蕭、曹、陳平とはとても比べられない。」 後日談となるが、 申嘉を追い落とした錯は仇敵袁に嵌められ誅殺された。景帝も錯を見殺しにした。 その袁も恨みを持つ梁王劉武の刺客によって暗殺された。 劉武もまた実兄景帝に嫌悪され鬱々として死んだ。 「人を呪わば穴二つ」とはこのことであろう。 |