第五話:その後の一族後漢書に申嘉の子孫が登場するので紹介する。 申剛、字は巨卿といい、申嘉から数えて7代目の子孫だった。 申剛の性格は剛直で(この一族は皆剛直なのか・・・)、衛の大夫で狂直で知られた史鰌や 直諫で鳴らした前漢の汲黯をいつも慕っていた。 前漢平帝(後、王莽に殺された)の頃、郡に仕えて功曹(功績を定める役目)となった。 申剛は、王莽が政治を壟断し平帝の実家の者が仕官できぬよう隔絶していることに憤慨し 書をしたため上奏した。王朝を乗っ取ろうとする王莽の野望を知っていたのであろう。 これを読んだ王莽は、申剛をクビにして郷里へ閉じ込めた。 王莽が帝位を簒奪すると申剛は河西に逃亡し、後に巴蜀へ入った。 建武七年(西暦31年)後漢光武帝に召し出され、侍御史(不正の弾劾が役目)に任じられ、尚書令に遷った。 光武帝は息抜きにと遊びに外出しようとしたことがあったが、運悪く申剛に気付かれた。 申剛は「まだ隴・蜀は平定されていません。」と正論を吐いて通せんぼをする。 しまいには自分の頭を馬車の車輪の前に投げ出し、絶対進めぬようにした。 これには光武帝も辟易し、外出するのを止めたという。 しかし、これらの直諌があだになって平陰県令に左遷されてしまった。 数年の後中央に呼び戻され太中大夫に任命されたが、病に侵され官を去り家で亡くなったという。 随分端折っています。誤訳あったらすいませんm(_ _)m |