第一話:材官蹶張申嘉は梁の人である。 劉邦に属した経緯は明らかでない。 材官蹶張(足で弩を引く射手)として劉邦に付き従い、項羽攻撃に参加した。 劉邦が天下を統一した後、申嘉の足取りは不明だが、 臧荼・韓王信・陳討伐に参加したと思われる。 紀元前196年、英布が反乱を起こした。 この時隊率(部隊の指揮官)に昇進していた申嘉は劉邦の出陣に従い、英布を攻撃した。 英布の軍は強く、既に劉邦の従父兄荊王劉賈を攻殺し、劉邦の実弟楚王劉交を敗走させていた。 英布は劉邦の軍と堂々とわたりあい、劉邦本人を負傷させた。(劉邦はこの傷が元で亡くなったという) しかし多勢に無勢、英布は敗走し義理の兄・長沙王呉臣を頼った。 が、英布は呉臣に騙され陽湖の近くで殺された。 この戦で申嘉は都尉(郡軍事指揮官)に昇進した。 劉邦は英布討伐のあと死に、恵帝が後を継いだ。(紀元前194年) 申嘉は昇進し、淮陽郡守となった。 漢書地理志によると淮陽郡は戸数は13万5544戸、人口は98万1423人であり、 古の陳国で、婦人を尊び、巫の風習が盛んであったという。 恵帝・呂后が死に、文帝が後を継いだ(紀元前179年) 文帝は禄高2000石の高官で劉邦の時代からつき従っていた者全員を関内侯(領地を持たない侯)とし、 うち二十四人に領地を与えた。 申嘉もその中の一人であり、五百戸を授けられた。 |