第三話:万石君石奮は中涓として劉邦のそばで真面目に職務をこなしていたようである。 漢軍に投降してきた陳平を接待したことが陳平伝に見える以外、これといって記述が無い。 天下が定まり劉邦が死に、文帝の時代となるとこれまでの功労を認められて 定員なしの太中大夫(郎中令の下にあって議論を司る。比千石)に任命された。 石奮には学問はなかったが、敬謙なことでは朝廷中、無比であったという。 文帝の太子劉啓(後の景帝)の太傅(教育係)を選ぶとき、臣下たちはこぞって石奮を推薦した。 太子太傅となった石奮は劉啓からは尊敬されたが、堅苦しく思われていた。 文帝が亡くなり景帝劉啓が即位すると、石奮は帝の師ということで九卿の列に加えられた。 しかし堅苦しい人物を側近に置きたくない景帝は、石奮を諸侯の相として外へ出してしまった。 教え子から受けた左遷にあたる人事を石奮はどう思ったか、史書には書かれていない。 石奮には四人の子があった。 長男は建といい、末子は慶といった。(第二子、第三子の名は不明) 兄弟四人とも揃って従順・孝行謹直であり、みな二千石の官職に登った。 景帝は石奮とその四人の子に対してこう言った。 「石君とその四子は皆二千石の身分であり、人臣最高の栄誉が石家に集まっているな。」 そしてその禄高を合計すると一万石となるので、石奮を万石君という号で呼ぶこととした。 |