韓信の配下として、まず漢を裏切った魏王豹(ぎおうひょう)を討つこととなった。 韓信は巧妙な策を立て、魏豹は策にまんまとはまった。 曹参は、魏豹を虜にし、魏王の母・妻・子ら、一族を全て捕らえる功を立てた。 魏の次は、趙だった。 張耳を追い出した陳余が支配する土地だった。 劉邦は張耳を韓信の下に派遣し、共に戦わせた。 趙の相国の夏説の軍を打ち破り、捕え斬った。 張耳と韓信は陳余の軍を破り、陳余を斬った。 この功績で、韓信は相国に任命され、配下の将軍達もそれぞれ昇進した。 曹参もこの時、右丞相に昇格した。 その後韓信軍は斉に攻め込み、都を落とした。 その後、項羽が派遣して来た増援軍を散々に破り、総大将の竜且を斬り、武将周蘭を捕らえた。 曹参は斉王の田広を捕え、更に追撃し将軍田既を斬り、将軍田吸をも斬った。 曹参の赫々たる武勲である。 そののち、韓信は劉邦の下に戻り項羽を討ったが、曹参は斉に残り掃討戦を行っていた。 こうやって見ると、曹参はやたらと掃討戦が多いことに気づく。 彭城での60万の漢軍大敗走の後始末や、斉の不服従勢力の後始末は皆、曹参がやっている。 地味な印象を受けるが、彼がいなければ漢軍などとっくの昔に消えていたのである。 じつは、すごい人かもしれない・・・。 項羽は死に、天下は平定された。 韓信は楚王に任命され、蕭何は丞相に任命された。 曹参は右丞相を辞め、平陽(へいよう)の地に10,630戸を領地として授かり、平陽侯となった。 そして、劉邦庶出の長男・劉肥が斉王に任命されるのに及んで、斉の相国に任命された。 大出世である。 しかし、曹参にとって斉の民治は始めてである。 相国になったからといって、特別な政策を持っていたわけでもない。 そこで、斉に住んでいた学者・長老を全て召出し、彼らに人民が安らぐ政策を尋ねた。 斉は儒の盛んな地域であり、学者の中の数百人は儒者だった。 曹参に召出された儒者達は、それぞれに自説を声高に唱え、言うことが皆違った。 曹参は混乱した。 側近の者が、 「この国の膠西(こうせい)の西に葢公(がいこう)という人物がおり、黄老の説に詳しいと聞いておりますが」 と進言した。 曹参は礼を尽くして葢公を招き、民治政策を尋ねた。 |
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葢公 | 「天下の民は、相次ぐ戦乱で疲弊の極みに達しております。 今はひたすら清らかに静かに政治を行うべきです。 礼を重んじ、民に無用の重圧をかけるのは得策ではありません」 |
曹参 | 「なるほど。では、あなたに斉の民治すべてお任せいたします」 |
こうして曹参は斉丞相の役目を葢公に押し付け、9年間のうのうと酒ばかり飲んでいた。 葢公の政策は時代に合致していたものだったので斉はよく治まり、民は肥え、 労せずして曹参は賢相と称えられたのであった。 |