今回取り上げる劉沢は劉邦の一族であるが、血縁関係は諸説ある。 司馬遷『史記』では「諸劉遠屬也」とあり、遠縁であると記しているが、 陸賈『楚漢春秋』では「劉澤、宗家也」とあり、劉一族の本家であったと伝える。 また班固『漢書』では「燕王劉澤、高祖從祖昆弟也」とあり、ひいおじいさんが兄弟だったと伝える。 諸説あり、どれが真実かは不明である。 高祖三年に郎中となった。それ以前から劉邦に従っていたのかどうかは判らない。 高祖三年は、劉邦にとって大変な年であった。 項羽に陽を包囲され手も足も出ず、領土割譲して講和を申し出たが范増に遮られ、 陳平の反間策を用い范増を去らせ、紀信が劉邦の身代わりになって焼き殺された年であった。 劉沢は楚漢抗争期に将軍であったようだが、 王侯になれる功績を立てられなかったのか、天下統一後一族でありながら侯に封じられていない。 項羽の一族起用とは対照的である。 劉沢が侯となるのは劉邦晩年の高祖十一年である。 陳の反乱で将であった王黄を討つ功績を立て、営陵侯に封じられた。 |