第二話:都を定める


劉邦は食事を用意し、婁敬を招き入れた。

食事が終わると、劉邦は質問した。


劉邦 「婁敬どのは私に何を教えてくれるのかな。」

婁敬 「陛下はこの洛陽を都にしようとお考えですが、それは周王朝の繁栄と

漢の繁栄を競おうとお考えだからでしょうか。」

劉邦 「いかにも。そのとおりだが。」

婁敬 「陛下が天下をお取りになったのは、周の場合と事情が違っております。

周王室の祖先は、徳を重ねること十余代。

民に慕われ、各国の争いを調停し、呂望(太公望)・伯夷が身を寄せました。

武王が暴虐な紂王の討伐を決断し、

出陣した孟津には、召集命令もだしていないのに八百もの諸侯が集まり、

共に殷を滅ぼしたのです。

その後ここ洛陽を造営しましたが、それは洛陽が天下の中心であったからなのです。

洛陽は、諸侯が貢物を献じたり労役を出すのに

四方からの道程が等しい所なのです。

ですから徳のあるものは王となりやすく、逆に徳の無い者は滅びやすい所なのです。

周王朝が洛陽に都を置いたわけは、

子孫の王たちが徳によって民に懐かれるのを願い、

険しい地形を頼みとして子孫たちが驕り高ぶって民を苦しめることを

望まなかったからなのです。」

劉邦 「ふむ、なるほど・・・。」

婁敬 「周が栄えていた頃は天下和合し、異民族も教化を受けて統治に服従しました。

一人の兵卒・士官も戦いに出さずに諸侯や異民族を心服させ、

貢物を献じさせたのです。

ところが、周王朝が東周と西周に分裂し衰えると、入朝する者もいなくなり、

周室もその状態を正す力はありませんでした。

これは、周の徳が薄くなったからではなく、

その土地が要害でなかったからなのです。」

劉邦 「周の経緯はよくわかった。

それでは、わしの場合はどうなのだ。」

婁敬 「陛下は沛豊から起ちあがられ、はじめ率いておられた兵は三千。

まっしぐらに進撃され、蜀・漢中・三秦を平定し、

項羽と戦われ、大きい戦で七十余、小さい戦闘で四十回、

天下の民の肝脳が地に飛びだし泥にまみれた数や、

親子共に骨を広野に晒させた数は、数え尽くせません。

死者を悼む号泣の声は今なお止まず、負傷者はいまだに立ち上がれません。

それでいて周王朝と繁栄を競おうとなさいます。

恐れながら周とは少しの類似点もありませんし、事情が異なっております。」

劉邦 「はっきりと申すの。

で、婁敬どのはわしにどうしろと言いたいのかな。」

婁敬 「秦の地は山に囲まれ河が廻っている為、四方が自然の防壁となり堅固であります。

もし東方で突然異変が起こりましても、そこで百万の大兵を揃えられます。

秦が残した豊かな土地に都を置かれますようお勧めいたします。

秦の地は『天府』(天がくれた倉庫)といえます。

もし函谷関以東が乱れましても、秦の故地は完全に保つことができます。

人と闘うとき、相手の喉を締上げ背を叩きのめさなければ、

完全に勝つことはできません。

いま、陛下が入関して秦の故地に都を置けば、

天下の喉を締上げ背を撃つことになります。」


劉邦は婁敬の意見を尤もだと思い、群臣に意見を求めた。

群臣はほとんどが函谷関以東の者ばかりだったので、口々に「周は数百年続きましたが、

秦はたった二代で滅亡しました。洛陽を都とするべきです。」と言い立てた。

劉邦は都を洛陽にするか長安にするか決定しかねた。

張良がはっきりと「長安を都にするべきです。」と進言すると、

劉邦は即日長安へ向かった。


劉邦は長安を都とすると、

「秦の故地に都を置くようにとわしに最初に勧めたのは婁敬であった。

『婁』とは、すなわち『劉』である。」(婁と劉は古代では音が似ていたらしい)

と言い、劉姓を与え郎中(皇帝の近侍・護衛官)に任命し、奉春君の称号を与えた。


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