第四話:謀叛失敗


劉長は領国へ戻ったが、前にも増して放縦となり漢の法に従わなくなった。

薄皇后(文帝の母)や太子(後の景帝)・諸大臣らはみな劉長を畏れた。ただおうだけが文帝を諫めた。


劉長は出入りの際には警蹕(先払いの掛け声)を唱えさせ、王命を天子の命令と同じく「制」と称し、

勝手に法律を作り、何もかも皇帝と同じようにした。またしばしば上書して、不遜な言葉を吐いた。

劉長の所業は以下の通りである。
  1. 淮南国内にあった諸侯の封邑を他郡へ移そうとしたが劉長が拒み、文帝が淮南王に三県を加増してやっと実行された。
  2. 文帝が置いた二千石の大官らを放逐し、自ら宰相・二千石を置いた。
  3. 領国経営を放棄し、庶民となって趙で母親の墓守になろうとした。
  4. 逃亡中の罪人を匿い、関内侯の爵位を勝手に与えた。
  5. ほしいままに人を罰し、殺し、赦免した。
  6. 南海王織から文帝への献上品であった璧・帛を朝廷へ取り次がなかった。
文帝は自ら弟を責めることができず、母親の弟であった薄昭に頼み、

書簡をもって劉長を諫めさせたが、劉長はまったく聞き入れなかった。


文帝六年、棘蒲侯陳武の太子・奇と共謀し、びん越・匈奴へ使者を送り謀反を企てた。

『史記』『漢書』を読む限りでは、劉長は本気で都を覆せると思っていたらしい。

当然このような杜撰な計画が漏れないはずもなく、事は未然に発覚。

淮南王劉長は都へ召喚された。


当然、重刑が言い渡されるはずなのだが・・・


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