劉長は領国へ戻ったが、前にも増して放縦となり漢の法に従わなくなった。 薄皇后(文帝の母)や太子(後の景帝)・諸大臣らはみな劉長を畏れた。ただ袁だけが文帝を諫めた。 劉長は出入りの際には警蹕(先払いの掛け声)を唱えさせ、王命を天子の命令と同じく「制」と称し、 勝手に法律を作り、何もかも皇帝と同じようにした。またしばしば上書して、不遜な言葉を吐いた。 劉長の所業は以下の通りである。
書簡をもって劉長を諫めさせたが、劉長はまったく聞き入れなかった。 文帝六年、棘蒲侯陳武の太子・奇と共謀し、越・匈奴へ使者を送り謀反を企てた。 『史記』『漢書』を読む限りでは、劉長は本気で都を覆せると思っていたらしい。 当然このような杜撰な計画が漏れないはずもなく、事は未然に発覚。 淮南王劉長は都へ召喚された。 当然、重刑が言い渡されるはずなのだが・・・ |