第八話:失脚


呂不韋の死刑を思いとどまった秦王政であったが、一年経って相国呂不韋を解任した。


その頃、斉と趙から来朝者があり、秦王主催の酒宴が開かれた。

そこで、斉の人茅焦(ぼうしょう)が秦王政に言った。

「秦は天下を取ろうとしておられます。

ところが王さまには、母君を雍へ流罪にし押し込めているという悪評が立っております。

諸侯がこれを聞けば、秦に背くこととなりましょう。」

これを聞いた秦王政は驚き、太后を雍から咸陽へ迎え入れ再び甘泉宮に住まわせた。

そして太后と密通していた呂不韋を封地の河南へ追いやった。


河南に追いやられただの文信侯となった呂不韋であったが、

十万戸を背景にした権勢は衰えなかった。

諸侯からの客人や使者が、毎日呂不韋に面会を求めるありさまであった。

呂不韋が叛乱を起こすことを警戒した秦王政は、呂不韋へ一通の手紙を与えた。

「御身は我が秦国にいかなる功績があって、河南に封じられ十万戸を与えられているのか。

御身は我が秦王家にいかなる血の繋がりがあって、仲父と号しているのか。

一族眷族とともに蜀へ移住するよう申し渡す。」

父かもしれない男にこの手紙を突きつけた政の心の内。もはや窺い知ることはできない。


これを読んだ呂不韋は自らの行く末を知り、酖毒を飲んで自殺した。

呂不韋は家来によって密かに葬られたが、秦王政に洩れた。

葬儀で哭泣した者で外国出身者は国外追放、秦人は蜀へ流された。

そして秦王政は、「今後、国事に参与しろうあい・呂不韋の如き者は、

すべてこの例に倣い一門の籍を没し奴隷とする。」と布告した。



始皇帝の十九年、政が辛い幼少時代をすごした趙が平定された。

政は自ら趙都邯鄲へ行き、母(太后)の一族と仇怨関係にあった者を捕らえ、

ことごとくこう(生き埋め)にした。

政は、奔放で欲情の強い女であったがやはり母を愛していたのであろう。

その年、政の母であり、呂不韋・ろうあいの愛人であった太后が死んだ。




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