第九話:その後の一族


孫盛の『蜀世譜』には、

「呂不韋の一族・子孫は蜀漢に流された。後に前漢武帝が呂氏を蛮族の地へ移住させて

蛮族の教化を図りその地を不韋県とした。」と載っている。

その永昌郡不韋県は、現在の雲南省保山にありミャンマー国境に近いところに位置する。

地名の由来は別説もあり真偽は明らかでないが、

不韋県出身で三国時代に活躍した呂氏がいるので紹介する。


呂凱、字を季平という。三国演義でおなじみである。

正史では、彼は永昌郡に仕えて五官掾功曹となった。

名吏だったようで、郡内に威光と恩愛が行き渡っており、人々に信頼されていたという。

劉備が死ぬと、死後の混乱を狙って叛乱を起こした雍がいが建寧・越すいかの三郡を占領し、

永昌郡と蜀との連絡を断ち切り道を塞いだ。悪いことに永昌郡太守も交替させられたところだった。

呂凱らは官民を激励し統率して、国境を閉ざし雍がいの侵入を防いだ。

がいは永昌郡に手紙を送り、叛乱に参加するよう求めたが、

呂凱はまったく相手にせず、援軍のあてもない蜀への忠誠を貫いた。

諸葛亮は南征し叛乱を鎮圧すると、呂凱の忠誠に感激し雲南太守に任命し陽遷亭侯に封じた。


後、反乱を起こした蛮族に殺害され、子の呂祥があとを継いだ。

蜀が滅び、晋の世となると南夷校尉となり、子と孫は永昌太守となった。

成漢の李雄が蜀を支配するようになっても、呂氏一族は服従を拒否し晋への忠誠を貫いた。


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