第七話:粛正始皇帝の九年(BC238)、「は去勢していない。以前から太后と交わっており、 子が二人もいるが隠している。太后と二人で『王亡きあとは、わが子を即位させよう』と もくろんでいる。」とを告発する者があった。 秦王政が事実を糾明したところ、この陰謀には呂不韋が連座していることが判ったが 公にしなかった。 この調査はにも知れた。 は、政が雍の年宮で冠礼を行って(日本の元服のようなものか)いるときに 攻めこんで反乱しようと考えた。 しかし、この計画は秦王政に漏れ、政は兵を発しを攻めた。 都咸陽での激戦となり、王側は数百の首を得たという。は逃走した。 政は「を生け捕りにすれば銭百万、殺した者は銭五十万」と触れを出し、 とその一味はあっけなく捕らえられた。 らは車裂きの刑に処せられ、さらし首にされた。 一族は皆殺しとなり、舎人たちは財産を没収され蜀の房陵へ流された。 太后は流罪となり雍に押込められ、との間にできた子ども二人も殺された。 政は呂不韋も死刑にしようとしたが、荘襄王に仕えた功績は大きく、 また呂不韋のために弁護する者も多かったので、刑罰を加えることは断念せざるを得なかった。 しかし、呂不韋が退けられるのは時間の問題であった。 |