第六話:太后の淫行


第五話で、呂不韋が信陵君らに対抗して食客を集めその数は三千人に達したと書いたが、

呂不韋は彼らに各々学び伝えていることを記させ、

八覧・六論・十二記から成る二十余万字の書を編集した。

呂不韋は天地万物・古今の事柄をすべて網羅したと自負し、『呂氏春秋』と名づけ、

木簡を都咸陽の市場の門に並べ掲げ、その上に千金を釣り下げて触れを出した。

「一字でも増やしたり減らしたりできる者には千金を与える。」

結局、誰もできる者がいなかった。

呂不韋の権勢を憚ってのことか、本当にできなかったのかは判らない。



秦王政は成長し男女間のことがらも解るようになってきたが、太后の淫行は修まらなかった。

呂不韋は密通が発覚して失脚・誅殺されることを恐れた。

そこで巨根を持つろうあいという男を探し出して門客とし、機を見ては音楽歌舞の催しを盛大に行い、

その折に桐で作った車輪を陰茎にはめて歩かせた。

太后はその噂を聞き、ろうあいを自分のものにしたいと呂不韋に申し入れてきた。

呂不韋は、ろうあいに腐刑(宮刑とも。陰部を切除する刑)にあたる罪があると告発した。

一方、太后には、「何かで腐刑を受けた者だということにしておきなさい。

そうすれば宦官として側仕えに取りたてることができます。」と伝えた。

太后は腐刑係りの役人に莫大な賄賂を贈り、偽りの判決を下させ腐刑を執行させなかった上、

ろうあいのひげと眉を抜いて宦官に仕立て、自分の側に侍らせた。

太后はろうあいを寵愛し身ごもり、人に知られるのを恐れ、

占いでお告げがあったとして雍の離宮に移った。ろうあいも当然雍について行った。


ろうあいは長信侯に封じられ、山陽の地を与えられてそこに住んだ。

下賜の品は莫大で、宮室・犬馬・衣服・苑囿・狩猟などはろうあいのほしいままにさせた。

下僕は数千人に膨れ、官職にありつこうとしてろうあいの舎人となった者は千人を超えた。

河西の太原郡はろうあいから一文字とってあい国と改称した。


太后の権勢を恃みに、諸事はすべてろうあいによって決められた。


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