第五話:位人臣を極める


荘襄王即位の立役者、文信侯となった丞相呂不韋は、王に信任され秦で実権を握った。

荘襄王元年、かろうじて残っていた東周(西周は既に滅んでいる)が諸侯と通じて謀反を企てたとして

呂不韋は東周を攻めた。

呂不韋は周の領土をことごとく奪い三川郡を置き、周は名実共に滅亡した。

しかしかつての盟主を誅殺するほど歴史を経ておらず、

秦は周王家に陽人の地を与え、移住させ一族の祭祀を続けさせた。


それから三年、荘襄王が死んだ。

呂不韋の孫(嘘か真か判らないが)の政が即位した。(後の始皇帝)

秦王政は十三歳であり、国政はすべて大臣らが仕切った。

秦王政は呂不韋を相国とし、仲父(叔父のこと。父の次に尊ぶ者の意)と号させた。

呂不韋の家の下僕は一万人を越え、賓客は三千人を越えた。

当時、魏の信陵君、楚の春申君、趙の平原君、斉の孟嘗君がそれぞれ食客三千人を抱え

名を轟かせていた為、それに対抗したのであろう。


呂不韋は位人臣を極めた。

しかし、彼には大きな弱みがあった。

昔の妾、今は太后と呼ばれる秦王政の母と密通していたのだ・・・


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