第四話:奇貨居くべし その三


呂不韋は邯鄲に長逗留する間に、容姿抜群で踊りの上手い女を妾にして家に入れた。

寵愛された女は妊娠した。


あるとき、子楚は呂不韋の家での宴に招かれた。

子楚は呂不韋の妾を見て一目惚れし、呂不韋に女を譲ってくれないかと持ちかけた。

呂不韋は怒ったが、「家財を傾けてまでこの男に尽したのは、大魚を釣上げる為だった。」

と思い直し、その妾を子楚に献上した。妊娠していることは隠したまま・・・。

それから女は子楚に幸され、昭王四十八年正月(BC259年)妊娠12ヶ月で子が産まれた。

10ヶ月で産まれなかった理由は不明である。

赤子の名は政といい、後に始皇帝となる。

子楚は男子が産まれたことを非常に喜び、改めて女を夫人に立てた。


昭王五十年十二月、秦昭王は将軍王きに趙を攻めさせ邯鄲を包囲させた。

趙は王孫の子楚を殺そうとし、屋敷を厳重に監視した。

事態を悟った子楚は呂不韋と相談し、

金六百斤(約150Kg)を監視の役人達に贈り、趙を脱出し秦へ戻った

夫人と三歳の政は取り残された。

しかし、呂不韋はこんなこともあろうかと、この愛する女を豪族の娘分にしておいたため、

母子共々そこに匿われ命が助かった。

結局、邯鄲は大要塞で王きはこれを抜くことができず兵を引いた為、事無きを得た。


それから数年、母子にとっては辛い日々が続いたであろう。

政は同年代の豪族の子らと遊んだであろうが、酷い扱いを受け激しい怨みを抱いたと思われる。

はるか後年、秦軍が趙を制圧した際、わざわざ政が邯鄲まで出向き、

彼が怨みを持つ者の一族や母方一族と怨恨のあった一族をことごとくこう(生き埋め)にした。

政の怨みの深さを窺い知ることができる。


邯鄲包囲から六年、昭王が亡くなった(BC251)

太子の安国君が即位し(孝文王)、華陽夫人は皇后となった。

子楚は正式に太子となり、趙は恐れて子楚夫人と政を秦へ帰した。

即位した孝文王は一年で急死し、急遽太子であった子楚が即位した(荘襄王)

荘襄王(子楚)は、義理の母である華陽皇后を太后とし、実母である夏姫も尊んで夏太后とした。

政は太子となり、恩人の呂不韋は丞相に任命された。

呂不韋は、らく陽で十万戸を与えられ文信侯となった。


「奇貨居くべし」

呂不韋の野望は実現したのである。



子楚異人というのが本名であった。

趙から逃れて秦へ戻り、楚の服を着て華陽夫人に会ったので夫人が喜び

「わたくしは楚の国の者です。あなたをわたくしの子にしましょう。」と言い、名を楚に改めさせたという。

尚、当列伝内では呼び方を子楚で統一している。



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