南越王趙佗は、呂后の時代に討伐をうけたがこれを撃退し南越武帝と名乗っていた。 漢皇帝と同じように幌の裏に黄色の絹をはった黄屋車に乗り、勅書には制の字を使った。 文帝はこれを改めさせ再び漢へ朝貢させる為に、前回趙佗をやり込めた陸賈を派遣した。 陸賈が来ることを知った趙佗は、すぐさま謝罪し漢文帝に従う意向を示した。 陸賈は再び外交で成功した。 結局、陸賈は天寿を全うして亡くなった。 彼の遺した作品は『漢書』藝文志に載っている。 陸賈二十三篇(『新語』十二巻を含むと考えられる。『新語』のみ現存する。) 『楚漢春秋』九篇(現存せず) 陸賈賦三篇(現存せず) の三作品である。『新語』は現代でも研究書が発刊されている。 また彼は平原君朱建や辟陽侯審食其と交流があった。 呂后の片腕として権力を振るって恐れられた審食其が、 呂氏誅滅の時に一緒に殺されなかったのは陸賈と朱建のおかげであったという。 |