第四話:程李その後、李広は辺境の郡太守を歴任し、隴西・北地・雁門・雲中郡太守を務めた。 景帝が崩御し十六歳の武帝が即位すると、左右の者達が李広を名将として推挙した為 李広は宮中へ召され未央宮衛尉に任じられた。 同じく名将として名を馳せていた程不識も長楽宮衛尉であった。 未央宮は皇帝の住居であり、長楽宮は皇太后の住居であり、武門の名誉であったであろう。 元光元年(BC134年。対外政策で大きな足枷であった竇太后が前年に死去している)、 和親を結んでいたはずの匈奴が度々侵略を繰り返すのに応じて、 李広を驍騎将軍として雲中郡へ、程不識を車騎将軍として雁門郡へ駐屯させた。 李広は対匈奴戦に際し、軍律をうるさく言わず部隊編成・隊列は曖昧であった。 よい草や水がある場所で休止する時は、兵たちを自由に休息させた。 宿営する場合でも、鍋を叩いて夜警をすることもなく、幕府では文書を極力省略した。 ここまで簡略化しても李広の軍は匈奴の害を受けたことが無かった。 遠方まで斥候を出し、警戒を怠らなかった為である。 一方、程不識は法家であったのか、軍律は極めて厳格であった。 隊伍を整え、夜警をし、軍吏は文書整理で夜を徹する有様であった。 しかしながら、程不識もまた匈奴の害を受けず、ともに名将の誉れが高かった。 程不識はしばしば李広と比較されたらしく、李広について言葉を残している。 「李将軍の軍律は極めて簡易だが、匈奴に急襲された場合防ぐ方法が無いだろう。 しかし彼の兵たちは逸楽を許されており、争って李将軍の為に死ぬだろう。 私のやり方は確かに煩雑だが、やはり敵は我が軍を襲えない。」 しかしながら、匈奴は李広をより恐れ、兵卒も李広の下につくことを好み程不識を嫌った。 半年して二人は命を受けて帰還した。 ![]() 程不識 景帝の時代にしばしば直言をし、太中大夫に任じられた。 |