陳留董祀妻者、同郡蔡 之女也、名 、字文姫。博學有才辯、又妙於音律。
適河東、衛仲道。夫亡無子、歸寧于家。
陳留の人、董祀の妻は、同郡の蔡 の娘であった。
名を といい、字を文姫をいった。(『列女後伝』によると、字は昭姫。)
博学で才気があり、弁舌爽やかであった。また、音楽にも精通していた。
(劉昭『幼童伝』には次のような話が載っている。
蔡 が夜に琴を弾いていたところ、弦が切れた。蔡 は「第二弦が切れたのでしょう。」と言った。蔡 は、「偶然当ったな。」と言った。
それから蔡 はある弦を切り、娘に質問した。蔡 は「第四弦ですね。」と言った。まったく誤りがなかった。)
河東郡の衛仲道のもとへ嫁いだが、夫に先立たれ、子も無かったので実家へ帰っていた。
興平中、天下喪亂、文姫為胡騎所獲、沒於南匈奴左賢王、在胡中十二年、生二子。
興平年間(194-195)天下は混乱し、蔡 は匈奴兵に捕えられ、南匈奴左賢王劉豹の妾にされた。
匈奴の地に住むこと十二年、劉豹との子を二人授かった。
曹操素與 善、痛其無嗣、乃遣使者以金璧贖之、而重嫁於祀。
祀為屯田都尉、犯法當死、文姫詣曹操請之。
時公卿名士及遠方使驛坐者滿堂、操謂賓客曰「蔡伯 女在外、今為諸君見之。」
及文姫進、蓬首徒行、叩頭請罪、音辭清辯、旨甚酸哀、衆皆為改容。
曹操は元々蔡 と親交があったため、蔡 に後継ぎがいないのを気の毒に思い、使者を匈奴に遣わして、黄金と宝石で蔡 を買い取り、董祀に再縁させた。
董祀は屯田都尉であったが、法を犯して死刑が決まった。蔡 は曹操のもとへ行き、夫の命乞いをした。
その時、公卿や名士、遠方からの使者で、座敷にはぎっしり人がつめかけていた。
曹操は賓客に言った。「蔡伯 ( の字)の娘が外に来ている。今、諸君に見せよう。」
蔡 は座に進み出て、素足で髪を乱しながら叩頭して夫の罪を詫びた。
声は澄み、言は明晰で、内容は甚だ悲痛であった。一座の者は皆、態度を変え、粛然とした。
操曰「誠實相矜、然文状已去、奈何?」
文姫曰「明公廐馬萬匹、虎士成林、何惜疾足一騎、而不濟垂死之命乎!」
操感其言、乃追原祀罪。
曹操は言った。「本当に気の毒に思う。しかし、死刑執行の文書を出してしまった。もう、どうしようもないのだ。」
蔡 は、「明公の厩舎には馬が一万匹おり、林のように居並ぶ虎士がおられるはず。死にかかった命を救うのに、足の速い騎兵を惜しまれるのですか。」と言った。
曹操はその言葉に感じ入り、董祀の死刑執行を止めさせるべく、使者を出して駆けさせた。
時且寒、賜以頭巾履襪。操因問曰「聞夫人家先多墳籍、猶能憶識之不?」
文姫曰「昔亡父賜書四千許卷、流離塗炭、罔有存者。今所誦憶、裁四百餘篇耳。」
操曰「今當使十吏就夫人寫之。」
文姫曰「妾聞男女之別、禮不親授。乞給紙筆、真草唯命。」
於是繕書送之、文無遺誤。
その時は早朝であり、寒かった。曹操は蔡 に頭巾と履物を下賜した。
そのついでに曹操は聞いた。「夫人の家には以前、古書がたくさんあったと聞いている。まだ暗記しておられるかな。」
蔡 「昔、亡父から四千巻あまりの書物を賜りましたが、流浪して塗炭の苦しみを味わった時に全てを失いました。今、暗誦できるのは、ようやく四百篇あまりです。」
曹操「では、十人の役人に命じ、夫人につけて写させよう。」
蔡 「わたくしは、男女の別は厳然であるべきだと聞いておりますし、礼法にも男女は親しく物を授受してはならぬとあります。紙と筆を頂戴致しますれば、楷書でも草書でも、命じるままに書きましょう。」
その後、蔡 はその四百余篇を清書して曹操に送ったが、誤字は一つもなかった。
後感傷亂離、追懷悲憤、作詩二章。
その後、戦乱で流浪した悲痛な記憶を思い、悲憤のあまり二章の詩を作った。
(以下の「悲憤詩」全文、読みたい方はコチラでどうぞ。)
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