漢代では陳留郡の人口は150万人を超えており、秦代でも活気ある都会であったに違いない。 この街に一人の変わった男がいた。 彼の名は ![]() 彼は町の出入門の門番をしており、家が貧しく没落していたことを物語っていた。 彼は若い頃から書物を読み漁り、人物批評をしたり混世を救う方策を誰に言うでもなく呟いていた。 県に住む人々はみな彼のことを「狂生」、要は「いかれた先生」と呼んでいた。 陳留の顔役たちも、敢えて彼を労役に使おうとはしなかった。 その変人が今回取り上げる ![]() 陳勝呉広が秦に対して反乱を起してから、高陽を通過する反乱軍首領は何十人といた。 ![]() しかし彼はどの首領にも失望した。 なぜなら、どいつもこいつも度量が狭く礼儀体面ばかりをやかましく言い、 自分勝手で人の意見を聞けないと思ったからである。 結局、 ![]() 高陽の人々は、やはり彼はイカレていると思った。 ある時、 ![]() 沛公は進軍中常に、「この土地にはどんな賢者豪傑がいるのかな?」と言って歩いていたので、 彼の評判は高陽でも広まっていた。 ![]() 沛公に従軍していた高陽出身の若者に会った。 |
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「わしが聞いておるところでは、沛公という人は酷く傲慢で人を馬鹿にするそうだ。 ところが、心には色々と大きな計画を隠しているというではないか。 このお方こそ、わしが仕えるべき人なのだが、 沛公にわしを紹介してくれる人がいないのじゃ。 君が沛公さまに面会したときに、 『私の郷里に ![]() 気狂い先生と呼ばれている人がおります。 ![]() と、沛公のお耳に入れてくれぬかの?」 |
若者 | 「![]() 沛公さまは儒者が大嫌いなのです。 儒冠を被った人がいると、沛公さまはいつもその冠をむしり取って、 その中へ小便を注ぎ込みます。 人と話すときは、いつも大声で儒者の悪口を言います。 ![]() |
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「いやいや。お話ができるだけでよいのじゃ。」 |
こうして若者は渋々沛公に![]() |