王翦が楚を滅ぼした年(秦王政二十五年)、王翦の息子・王賁は李信らと兵を率い 遼東に逃げ込んだ燕王喜を攻め、これを捕虜とした。 引き返して同盟関係にあった代(趙滅亡後王族が逃げ込んで独立した)を討ち、代王嘉を捕虜とした。 王賁軍はそのまま燕に戻り、兵を休めた。 秦王政は五国を滅ぼしたのを祝して、各地で大いに酒宴を開かせた。 秦と友好的であった斉が最後まで残ったが、秦王政は容赦しなかった。 秦王政二十六年、斉王建と宰相の后勝が勝手に国交を断ち国境を閉ざしたとし、 燕に留まっていた王賁に命令して斉に騙し討ちを仕掛けさせた。 南下して斉を急襲した王賁は、無人の野を行くが如く進撃し、あっという間に斉都臨を包囲した。 斉の民は誰一人として抵抗する者はなく、斉王建は降服した。 秦王政は天下を統一し、皇帝を名乗った。 六国を滅ぼした王氏の功績は大きく、名声は後世までひきつがれた。 始皇帝は王賁を通武侯に封じ、王賁の息子・王離を武城侯に封じた。(王翦については不明) 後、王賁・離父子は始皇帝の天下巡遊に従い、石碑に名を刻んでいる。 この時王翦は同行していないようだが、既に亡くなっていたのか郷里で隠棲していたのか 定かではない。 「二世胡亥が即位したときには王翦・王賁は死去したあとだった」と記録されているだけである。 |
秦の他国討伐リスト 韓 ― (内史)騰 趙 ― 王翦・羌 魏 ― 王賁 楚 ― 王翦・蒙武 越 ― 王翦・蒙武 燕 ― 王翦・王賁・辛勝(燕都陥落)、王賁・李信(遼東で燕王捕捉) 代 ― 王賁・李信 斉 ― 王賁・李信 |