秦王政二十二年、王翦の息子王賁は兵を率いて都・大梁に立て籠もる魏を攻撃した。 魏は大梁城を堅守し、陥落しそうもない。 そこで王賁は水攻めを考案した。 水攻めは失敗すれば味方の陣を水没させる。 地勢を熟知していないとできない芸当であろう。 王賁はこれを成功させた。 済水から掘割(河溝という名らしい)を通し、 大梁城に注いだ。 城壁は徐々に浸食され、魏軍は成す術無く、三ヶ月目で城壁は崩壊した。 水が引くと秦兵による一方的な殺戮が始まるのは目に見えている。 魏王假は降伏を願い出、捕虜となり魏は滅亡した。 この時の戦で大梁は廃墟となった。 司馬遷が訪れた頃には別に街が形成されていて、魏時代の大梁は「墟」のままであったという。 残る大国は斉と楚だけとなった。斉は首脳部が買収されて秦の言いなりとなっていた為、 秦は楚の孤立を狙い魏を滅ぼしたのだった。 秦王政は「二十万の兵で充分」と言った李信に蒙恬をつけて楚討伐に行かせた。 二人とも有能な若手将軍である。 李信と蒙恬は別行動で楚を攻めた。 李信は平與を、蒙恬は寝を攻撃し 楚軍に大打撃を与えた。(何れも汝南付近) さらに李信は一軍を率いて転戦し、 ・郢を攻め落した。 後憂を断った李信は、蒙恬と合流する為に父城(汝南付近)に向ったが、 楚将項燕(項羽の祖父)が密かにあとをつけていることに気が付かなかった。 項燕は三日三晩宿営せずにあとをつけ、李信軍を背後から急襲した。 李信軍は恐慌状態に陥り、土城を二つ奪われ部隊長を七人失った。 項燕は大戦果をあげ、李信は惨敗した。 この報を聞いた秦王政は危機を感じた。 この惨敗で秦による天下統一が失敗するかもしれない、と。 秦王政十二年旱魃、十五年地震、十七年飢饉、十九年飢饉、二十一年雪害、 連年自然災害に襲われ人心も定まらぬ中での出兵である。 しかも楚軍は次々と失地を回復しているという。 趙・燕・魏を次々と滅ぼし、南方の雄・楚を甘く見ていた。二十万では無理だったのだ。 そして趙・燕を滅ぼしたのは、李信でも蒙恬でもなく老王翦であった。 政の頭の中に郷里に隠棲した王翦の言葉が蘇った。 |
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王翦 | 「六十万でなくては無理でしょう。」 |
秦王政 | 「ははは、王将軍も年をとられたな。それほど楚が恐ろしいか。」 |
政は居ても立ってもいられず、頻陽で隠居生活を送っていた王翦を訪ねた。 |