第二話:趙を滅ぼす


翌年、秦王政十二年には呂不韋の自殺などがあり、大きな動きは無かった。

十三年十四年にはぎょう攻略で将軍に昇進した桓きが趙に攻め入り、

重要な都市平陽を奪い、首を斬ること十万であったという。

十五年、秦軍は再びぎょうに進出し、一軍は晋陽付近に至ったが李牧に撃退された。

翌年、徴兵の為にすべての男性の年齢を記録した。十七年には韓が滅び潁川郡となった。

標的国の重要拠点を奪い、じわじわと都に迫っていく秦の戦略がよく解る。



秦王政十八年、王翦は満を持して上郡地方(河水より左、秦の領地)の兵を率いて汾水を遡り

趙へ侵入した。

王翦は井けいを陥落させ、趙都邯鄲へと迫った。

これに対し趙将李牧・司馬尚が迎撃した。李牧は度々秦軍を破り、恐れられていた将軍である。

まともに当たっては損害が大きいと考えた王翦は、趙王の寵臣郭開に大金を食らわせて買収し、

「李牧と司馬尚は反逆を企てております。別の将軍に換えた方がよいでしょう。」

と趙王に讒言させた。

趙王遷はまんまと騙され、趙そうと顔聚を送り李牧・司馬尚と交代させようとした。

李牧は王命を聴かなかったが捕らわれて誅殺され、司馬尚は庶民に落とされた。


王翦にとって、李牧のいない趙軍など烏合の衆である。

王翦は趙軍を破り、代方面を攻撃していた羌かいとも合流し邯鄲包囲網に加わった。
(このとき楊端和が河内方面から北上して、先に邯鄲を包囲していたようである。)

邯鄲は街そのものが要塞であり、また大飢饉が発生した為にさすがの王翦も攻めあぐねた。

翌年の秦王政十九年十月、王翦は急襲して邯鄲を落とし趙そうを斬った。

趙王遷と顔聚は逃げたが平陽で捕らえられて降り、趙は滅亡した。

王翦が趙に攻め入ってから、一年が経っていた。


王翦は攻撃の手を緩めず、趙を滅ぼした勢いで中山まで軍を進め、燕を威嚇した。


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