第四話:易初本由兮、君子所鄙



恵帝二年(紀元前193年)に蕭何が亡くなると、劉邦の遺言通り曹参が二代目相国となった。

恵帝六年(紀元前189年)には曹参も亡くなった。

劉邦の遺言では、「王陵に国を任せ、陳平にこれを補佐させよ」というものだったので、

相国を一人だけ置くことをやめ、かわりに右丞相・左丞相を置くこととした(右丞相の方が高位)

そこで、王陵を右丞相とし、陳平を左丞相とした。


王陵が右丞相となってから二年後、恵帝が亡くなった。

呂后は呂氏で天下を取ろうと企んでいたので、

手始めに一族の者を王にしようとし、大臣達にこれを強引に認めさせようとした。

しかし呂后を恐れる大臣達のなかで、最高位にある王陵だけは強硬に反対した。


呂后 「右丞相に聞く。

王陵よ。私は呂一族を王に取り立てようと思うのですが、どう思いますか。」

王陵 「いけませぬ。

臣らは高帝(劉邦)と白馬を殺してその血をすすり、

『劉氏以外の者が王となったら諸侯と協力してこれを撃つ』と誓いを立てました。

呂氏を王に立てるのは盟約に反しています。」

呂后 (むうぅ…、王陵の石頭め!ゆるさぬぞ・・・)

では、左丞相に聞く。

陳平よ。呂氏の功績を考えると、王位にあってもおかしくないと思うが、どう思いますか。」

陳平 「結構だと思います。

高帝は天下を平定なされ、一族を王に立てられました。

そして今は太后さま(呂后)が天下に号令されています。

太后さまのご一族を王とすることに大いに賛成いたします。」

呂后 「そうかそうか。ではこれで朝議を終わりとする。」


王陵は退出してきた陳平・周勃を激しい勢いで詰問した。


王陵 「高帝と共に白馬の血を啜って誓ったとき、君たちもいたではないか!

なぜ呂氏の王を認める発言をした!!

高帝は崩じ、太后は女性ながら天下を握り、その権力で呂氏の王をつくろうとしている。

君たちだってそれくらいわかるであろう。なぜ、太后に媚びへつらうのだ!

君たちが太后の意を迎え、高帝との盟約に背くならば、

何の面目があって地下の高帝にまみえるのか!!」

陳平 「確かに貴殿の言うとおりだ。

面と向って欠点を指摘し、朝廷に於て直諫できる人物は、現在君以外にいない。

だが、遥か先のことを考え、漢の社稷を全うし、劉氏の子孫を安定させる点では、

君は私たちに及ばない。」

王陵 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」




しばらくすると、呂后は「右丞相から昇進させる」という名目で王陵を太傅に左遷した。

王陵は悲憤を発し、病気を理由に門を閉ざして家に引きこもり、一切の官職を捨てた。

そして、自分の領国(冀州中山郡安国県)に帰り、

政治には一切関わらず、ついに一度も参内しなかった。(当時、春・秋は必ず参内しなければいけなかった)


七年後、王陵は死んだ。

葬式の一切は、北平侯張蒼が取り仕切ったと思われる。


まだ劉邦が沛公と呼ばれていた頃、張蒼は死刑となった。しかし、斬首の寸前に王陵が止めた。

そして劉邦に、「見どころのある人物です」と取りなしてくれ、官に取りたてられた。

張蒼は武官としても活躍したが元来秦政府の御史(書記)であり、漢が成立すると文官として活躍した。

四年間主計(経済担当大臣)を務め、後、御史大夫(丞相の次に位置する高官)となった。

高官となっても、常に父としての敬意を以って王陵につかえた。

自分の才能を知り、命を救ってくれた王陵の恩義に感謝していたのである。


王陵が死に、呂后も死ぬと、張蒼は丞相となった。

張蒼は最高位に登っても、王陵の恩義を忘れなかった。

彼は休暇のたびに、まだ存命していた王陵夫人を訪問し、食事をさしあげてから自宅へ帰ったという。



『懐沙の賦』を著した屈原は言う。

「吾聞之、新沐者必彈冠、新浴者必振衣、人又誰能以身之察察、受物之びんびん者乎!

寧赴常流而葬乎江魚腹中耳、又安能以晧晧之白而蒙世俗之温蠖乎!」

髪を洗ったばかりならば必ず冠の塵を落とすという。

湯浴みしたばかりなら必ず衣服を振るって埃を落とす、と私は聞いた。

いったい、清らかな身に、穢れたものを着せられるのか。

それならば、流れる水の中に入り、魚の餌となって魚の腹の中に葬られた方がよい。

真っ白な唯一色の上に、けがれた世俗の黒さをかぶせることに耐えられようか。



ここに王陵の志を賛え、この伝の結びとしたい。



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