王陵は母の死より劉邦につき従って天下を平定した。 天下は定まり、劉邦は群臣と共に洛陽で宴会を開き、その席上で言った。 |
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劉邦 | 「列侯諸将よ。隠し立てせずに、ありのまま言ってもらいたい。 何故ワシに天下が取れたのか、そして項羽が天下を失った理由は何か。」 |
王陵 | 「謹んで申し上げます。 陛下は傲慢で人を侮ります。しかし項羽は情深くて、人を愛しました。 しかし陛下は城を落とし地を平定した者には、地を与え、 天下の人々と利を同じくなされました。 一方、項羽は賢者や能力のある者を警戒・嫉妬しました。 戦い勝ってもその功を独り占めし、他人に分け与えず、 地を得てもその利を人に与えませんでした。 これが項羽が天下を失い、陛下が天下を取った理由であります。」 |
劉邦 | 「ははは。まあ、そんなところだろう。 だが、公はその一を知って、まだその二を知らないぞ。 そもそも策謀を本陣の帷幄の中で巡らせて、その結果勝利を千里の外で決する点では、 ワシは子房(張良)に及ばないのだ。 国家を鎮め、人民を懐け、食糧を供給して糧道を絶たず軍を飢えさせないという点では、 ワシは蕭何には及ばないのだ。 百万の兵を率いて、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取るといった点では、 ワシは韓信には及ばない。 この三人は、みな人傑である。 わしはこの三人をよく用いることができたのだ。これがワシが天下を取った理由だ。 項羽には唯一人范増があったが、これを十分に用いることができなかった。 だから項羽は天下を失ったのだ。」 |
その後、皇帝劉邦は功臣の封爵に取りかかった。しかし、封爵の段階になって劉邦の執念深さが出た。 王陵は、以前劉邦が沛公と呼ばれていた頃に、雍歯と通じて劉邦の故郷豊を占領したことがあった。 劉邦は故郷を奪われた怨みを忘れておらず、雍歯には最初に侯に封じることによって仕返しとし、 王陵には人より遅れて侯に封じることによって仕返しとした。 (ちなみに雍歯の封じられた場所は益州広漢郡什方であり、異民族・羌の居住地区と隣接していた。 現在では什といい、俗称雍歯城というそうである。) 王陵は冀州中山郡安国県の五千戸を与えられ安国侯となり、 侯の中では十二番目という高位となった。 これは、劉邦個人としては王陵に旧怨があるものの、母を失ってまで自分に尽くしてくれた 兄貴分に報いる気持ちと、硬骨漢王陵に死後を託す気持ちの現れであった。 紀元前195年、劉邦は死んだ。 呂后が遺言を聞いた。 |
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呂后 | 「陛下がお隠れあそばせた後、蕭相国(蕭何)がもし死にましたら、 その後は誰に国を任せればよろしいでしょうか。」 |
劉邦 | 「曹参がよい。」 |
呂后 | 「曹参も若くありません。もし曹参が死んだら、その後は誰にすればよいのです。」 |
劉邦 | 「王陵だ。彼は愚直だが、陳平に補佐させれば万全だろう。 陳平の智は国を任せるに充分だが、独りでは無理であろう。 周勃の人柄は重厚であり朴訥だ。しかし文に欠ける。 だが、結局劉氏の天下を安定させるのは周勃に違いない。彼を太尉にせよ。」 |
呂后 | 「では、その後は?」 |
劉邦 | 「・・・・・・。 それから後のことは、お前の知るところではない。」 |
こうして劉邦は王陵らに後事を託して逝った。 王陵はこの遺言に感激した。 王陵は、劉邦・諸侯とともに白馬の血をすすって『劉氏以外の者が王となったら、これを撃て』 と誓った約束を愚直なまでに守ろうとした。 劉邦が死ぬと呂后が天下の権を握ったが、彼はこれに対し終始妥協しない姿勢を保った。 しかし、その姿勢はいずれ呂后と衝突せざるをえない運命にあった・・・ |