劉邦は、韓信を得て巴蜀の地から三秦に出撃し、あっという間にこれを手に入れた。 しかし、函谷関から出て項羽と争う自信は無かった。第一、家族がまだ沛にいた。 沛は覇王項羽の都・彭城に近く、いつ人質に取られてもおかしくなかった。 そこで劉邦は、故郷・豊からの古馴染み薛欧・王吸に、家族を迎えるよう命じた。 その際、武関から出て、宛に勢力を張っているかつての兄貴・王陵を頼るように忠告した。 薛欧・王吸は武関を出るとすぐに王陵に面会し、援助を申し入れた。 王陵は、弟分から「家族を奪還し保護してくれ。」という義侠を頼まれたことに感激し、 全力をあげて援助した。 上の地図を見ても判るように、宛から沛までは500Kmちかくあり、救出は到底無理な話であった。 しかし王陵は不可能を可能にした。 秘密裏に少人数を派遣し沛に潜入させ、太公(劉邦の父)と呂后を迎えることに成功した。 これにより、王陵はその名を敵味方に強烈に焼き付けた。 劉邦が関中を出て彭城に向って進撃を開始すると、一匹狼王陵もはじめてこれに参加した。 劉邦軍は56万に膨れ上がり、あっという間に彭城を落とした。 しかし項羽の超人的な活躍により、56万の軍がたった3万の楚軍に敗れ去った。 楚軍は沛に乱入し、劉邦の家族を捕らえ、王陵の母をも捕らえた。 項羽はこれを喜び、王陵の母を常に軍中に置き優遇した。 王陵の使者が楚の軍中に来ると、項羽は王陵の母を東向きの上座に坐らせて敬意を表し、 王陵を楚へ呼び寄せようと画策した。 しかし、王陵の母は項羽の意図を見抜いていた。 ある時、こっそりと息子の使者の見送りに出て、涙を流して言った。 |
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王陵母 | 「年老いた私のために、陵に伝えておくれ。 『漢王は徳高いお人です。謹んで漢王にお仕えするように。 老母が楚にいるからといって、二心を抱いてはなりませぬ。 私は、死んで使者を送りましょう。』とね。」 |
使者 | 「あっ!待たれよ!!」 |
王陵の母は、使者が制止する間も無く、剣で胸を突いて自害した・・・。 項羽は王陵母自害の一部始終を聞き、腹を立ててその遺骸を釜ゆでに処した。 王陵はこの報を使者から聞き、慟哭した。 そして、母を計略に使い、遺骸を辱しめた項羽に命を賭けて復讐することを誓った。 劉邦は王陵からこの衝撃的な報告を受け、言葉が出なかった。 が、兄貴分王陵を一生涯にわたって優遇することを心に決めた。 「この母ありて、この子あり。」という言葉はこの母子の為にある。 |