第二話:義侠母子



劉邦は、韓信を得て巴蜀の地から三秦に出撃し、あっという間にこれを手に入れた。

しかし、函谷関から出て項羽と争う自信は無かった。第一、家族がまだ沛にいた。

沛は覇王項羽の都・彭城に近く、いつ人質に取られてもおかしくなかった。


そこで劉邦は、故郷・豊からの古馴染み薛欧・王吸に、家族を迎えるよう命じた。

その際、武関から出て、宛に勢力を張っているかつての兄貴・王陵を頼るように忠告した。




薛欧・王吸は武関を出るとすぐに王陵に面会し、援助を申し入れた。

王陵は、弟分から「家族を奪還し保護してくれ。」という義侠を頼まれたことに感激し、

全力をあげて援助した。

上の地図を見ても判るように、宛から沛までは500Kmちかくあり、救出は到底無理な話であった。

しかし王陵は不可能を可能にした。

秘密裏に少人数を派遣し沛に潜入させ、太公(劉邦の父)と呂后を迎えることに成功した。

これにより、王陵はその名を敵味方に強烈に焼き付けた。



劉邦が関中を出て彭城に向って進撃を開始すると、一匹狼王陵もはじめてこれに参加した。

劉邦軍は56万に膨れ上がり、あっという間に彭城を落とした。

しかし項羽の超人的な活躍により、56万の軍がたった3万の楚軍に敗れ去った。

楚軍は沛に乱入し、劉邦の家族を捕らえ、王陵の母をも捕らえた。

項羽はこれを喜び、王陵の母を常に軍中に置き優遇した。


王陵の使者が楚の軍中に来ると、項羽は王陵の母を東向きの上座に坐らせて敬意を表し、

王陵を楚へ呼び寄せようと画策した。

しかし、王陵の母は項羽の意図を見抜いていた。

ある時、こっそりと息子の使者の見送りに出て、涙を流して言った。


王陵母 「年老いた私のために、陵に伝えておくれ。

『漢王は徳高いお人です。謹んで漢王にお仕えするように。

老母が楚にいるからといって、二心を抱いてはなりませぬ。

私は、死んで使者を送りましょう。』とね。」

使者 「あっ!待たれよ!!」


王陵の母は、使者が制止する間も無く、剣で胸を突いて自害した・・・。

項羽は王陵母自害の一部始終を聞き、腹を立ててその遺骸を釜ゆでに処した。


王陵はこの報を使者から聞き、慟哭した。

そして、母を計略に使い、遺骸を辱しめた項羽に命を賭けて復讐することを誓った。

劉邦は王陵からこの衝撃的な報告を受け、言葉が出なかった。

が、兄貴分王陵を一生涯にわたって優遇することを心に決めた。



「この母ありて、この子あり。」という言葉はこの母子の為にある。


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