第一話:南越の友情
趙佗(ちょうた)は趙の常山真定(今の河北省正定県)の出身であり、れっきとした漢民族である。

三国志に登場する趙雲も常山真定の出身であり、ここには「趙」という姓の人が多くいたと思われる・・・


秦は天下統一した後、南越の地(今の広東省・広西省・湖南省南部・江西省南部・福建省南部)を攻略し、平定した。

そこで桂林・南海・象郡の三郡を設置し、流人を大量移住させ、越人と十数年間同居させ統治した。

その時、南海郡の竜川県県令に赴任して来たのが趙佗だった。勿論、秦の役人である。

彼はこの蛮地で、南海郡尉(南海郡軍隊長)の任囂(じんごう)と親しくなった。

始皇帝が死に二世胡亥が即位した頃、任囂は病を得、危篤となった。任囂は急いで趙佗を呼び出した。

任囂は趙佗に最期の言葉をかけた。

「聞くところによると、陳渉呉広・項梁・張耳陳余といった連中が、兵を挙げたそうだ。

秦は道に外れた残虐な政治を行い、万民は喘ぎ苦しんだ。

それに乗じて、豪傑どもは天下の支配権を巡って争うのであろう。

南海郡は中央から遥か遠く懸離れている蛮地とはいえ、奴等が攻めてくるかも知れぬ。

だから、私は兵を挙げ秦の開いた新道を遮断し、守備を固めて中央の動乱を見守りたいと思っていた。

だが、それも果たせぬ夢となった。

南越は東西数千里にわたり、国を建てることだって可能だ。

しかし、郡内にいる秦の上級官吏にはこのことを相談できる奴はいない・・・。

君を呼んだのはほかでもない。私の夢を継いで欲しいのだ。君なら必ずできる・・・」



趙佗はこの任囂の遺言を聞き、涙を流しながら友の今際の申し出を受けた。

任囂は、即座に趙佗を自分の部下の事務取扱いに任命し、自分の死後、職権が譲渡しやすいようにした。



そして、間も無くして任囂は息を引き取った・・・


南越:長沙の南から、ベトナムの北に至るまでの広大な地域。
異民族が多く住み、百越とも呼ばれた。



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