第五話:暗雲


趙高は戦国趙王家の遥か遠縁にあたるといわれるが、代々卑しい身分であった。

母が刑罰を受け、趙高ら兄弟数人は生まれるとすぐに去勢されて宦官となった。

始皇帝は趙高が裁判事務処理に長けていると知ると、抜擢して中車府令(宮中の馬車を管理する)とした。

趙高は始皇帝の末子胡亥に接近し、家庭教師としてとりいった・・・。


始皇帝三十五年(紀元前212年)、始皇帝は有名な坑儒をおこなった。

学者たちが始皇帝を密かに誹謗し、妖言を撒いているとの理由だった。

この坑儒に対し、太子の扶蘇が父を諌めた。

「天下は定まったばかりで、遠方の民は未だなついておりません。

学者達は孔子の教えに則っておりますが、陛下は法を重んじて彼らを罰します。

臣はこのやり方では天下が安定しないのではないかと考えます。なにとぞご賢察を。」

しかし父の始皇帝は怒り、息子を蒙恬の監督をさせるという名目で、対匈奴最前線へ追いやった。


翌年、始皇帝は九原から甘泉宮(秦の離宮)へ通じる

直通道路の建設工事を蒙恬に指示した。

蒙恬は刑人らを指揮して山を削り谷を埋め、

千八百里の道を完成させたが、完成には至らなかった。


始皇帝三十七年冬、始皇帝は恒例の天下巡業に出た。

会稽まで一気に南下し、

海沿いを北上して琅邪へ向う大旅行であった。


しかし、この巡業中に始皇帝は死ぬ。

そして始皇帝の死と共に、蒙家を潰そうとする趙高の暗躍が始まる・・・


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