第五話:面従腹背
呂后が死に文帝が即位した。

文帝は中国を徳で治めようとし、蛮国にもその旨を伝える使者をだした。

特に南越の趙佗は重要視された。

真定にいた趙佗の兄弟・親族を召出し、高い官位と高価な下賜品を与え両親の墓には墓守も付けた。

南越懐柔策であることは言うまでもないが、無駄な出兵を避ける文帝らしい処置である。

そして引退していた陸賈を引っ張りだし、南越へ行かせた。

「陸賈来たる」と聞いて趙佗は恐れおののいた。陸賈には敵わないと心底から思っていたのである。

さっそく趙佗は謝罪する書状を書いた。口では絶対敵わないからである。

「蛮族大酋長でありまするこの趙佗は、先ごろ呂后さまが南越を差別されましたことから、

内心、長沙王・呉右どのが私のことを讒言したかと疑惑を抱きました。

また呂后さまが私の親族を皆殺しにされ、私の両親の墓を焼かれたと聞きました。

私は絶望のあまり自暴自棄になり、皇帝を勝手に名乗り、長沙の国境地帯を犯しました。

こちら南方では、越に住む千人の部族でも王を称し、甌・駱の裸で暮らす部族でさえ王と名乗ります。

この老いぼれである私が、帝と自称しましたのも、ホンの憂さ晴らしの慰みでした。

どうか蛮族だと思って、大目に見てください。

これからは、永久に臣として貢物を出し、任務を謹んで守るようにさせていただきたいと思います。」


そして南越国内には

「二人の英雄は両立しない。二人の賢人は同時に出現しない。漢の新皇帝は優れた天子だ。

私は、今より後は皇帝の名乗りをやめ、黄屋車に乗らず、みことのりも出さないこととする。」

(すげー自信ダ・・・自分のことを「英雄・賢人」だなんて・・・)

とお触れをだした。陸賈は長安に帰ってこれを文帝に報告した。文帝はとても喜んだという。

しかし!!趙佗は老獪なタヌキであった。

彼は武帝の時代まで生きたが、南越国内ではず〜っと南越の武帝を名乗り続けていたのだ。

漢には春・秋ごとに使者を送っていたが、趙佗は自らを「臣」と名乗り、一諸侯として振舞っていた。


趙佗は長寿を保ち、紀元前137年にこの世を去った。
長寿・・・? 趙佗は前漢の時代では異常に長生きした人である。他に異常な長寿を保ったのは、張蒼(ちょうそう)がいる。彼ははじめ秦に御史として仕えたが罪を犯した為、郷里に逃亡した。やがて劉邦が旗揚げした後、これに加わり武官として活躍し、陳余を捕えるなど功が多かった。その後、代国の相となり対北方異民族のエキスパートとなった。暫らくして趙王張耳の相になり、張耳の死後も息子敖を助けた。その後再び代の相となり異民族対策を練った。燕王臧荼討伐で手柄を立て中央に移り主計となり、相国蕭何の下で活躍し音律・暦・租税などを正した。後、淮南の相に移ったが、またもや中央に戻り御史大夫になった。文帝の時、丞相灌嬰が死ぬと後任の丞相となり法律条令を制定し、度量衡を統一した。が、その後15年して病気にかこつけて免職となり老いぼれと自称した。その後も生き続け、景帝の時代、紀元前152年に百余歳で死んだ。晩年は老いがひどく、全ての歯が抜け落ち、物が食べられず、仕方なく乳の出る妾が乳を含ませていたと言う。その一生で、妻妾は百人を越え、一度妊娠した者は二度と愛されなかった。
趙佗は? では、趙佗は何歳で死んだのだろうか。『史記』では趙佗の寿命には触れられておらず推測の域を出ないのだが、彼は100歳前後で亡くなったのではないだろうか。彼は秦の始皇帝の時に南海郡竜川県県令になっている。始皇帝が南越を討伐し支配下に置いたのが紀元前214年近辺で、死んだのが紀元前210年なので、趙佗が竜川県に赴任したのが大体紀元前214〜209年となる。このとき趙佗が20歳だったと仮定すると(適当^^;)、誕生年は紀元前230年前後となる。死んだのが紀元前137年と明記されているので、彼は93歳まで生きたことになる。もし彼が竜川県県令になったのが壮年であったならば、120歳近くまで生きたことになる。まさかネェ・・・いくらなんでもそんなに長生きはしないでしょ・・・。

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