附記:南越その後
趙佗は長生きし、息子に先立たれてしまったため孫の趙胡(ちょうこ)が二代目南越王になった。

隣の越国は、南越の王位相続のドサクサに紛れて南越国に侵攻した。

趙胡はこれを武帝に報告し、併せて越討伐を嘆願した。

武帝は快く引き受け、南越王の忠誠を褒め称え軍を進発させた。

越では内紛があり、討伐軍が到着する前に王が殺され降伏したため漢軍は撤兵した。

南越王趙胡はこれを非常に感謝し、太子の趙嬰斉(ちょう・えいせい)を入朝させ武帝の側に仕えさせた。

武帝は趙胡を入朝させたかったが、南越王の家臣達が趙胡の入朝を懸命に引き止めた為、

趙胡は「病が癒えず、入朝できません。」と仮病を使い、結局最後まで入朝しなかった。

それから10年余して、趙胡は亡くなった。太子・趙嬰斉は帰国を申請し認められた。

趙嬰斉は邯鄲の樛氏(きゅうし)を娶って(こう)という男氏を授かり、彼を世継ぎとし王位についた。

漢では再び南越王・趙嬰斉に入朝を勧めたが、彼は父親と同じく仮病を使って入朝せず、

子の次公を側仕えとして入朝させた。

暫らくして趙嬰斉が亡くなり、趙興が王位についた。樛氏は太后となった。

樛氏は趙嬰斉の妻になる前、安国少季(あんこくしょうき)と密通していた。

漢へ入朝を勧める使者として安国少季が南越へやって来ると、二人はよりを戻した。

しかしこれが皆にバレ、樛氏を淫乱扱いにし誰も太后を敬わなくなってしまった。

樛氏は「息子は若いし、私のせいで騒動が起きるのでは?」と思い、

漢の権威に頼ろう思い、王が入朝するよう大臣達を度々説得した。

結局、趙興は母親に説得され入朝する意思を漢帝に伝えてしまった。

ところが南越国丞相の呂嘉(りょか)が入朝に反対した。

怒った樛氏は矛で呂嘉を刺殺しようとした!!)が王に遮られた。

この為、呂嘉は漢政府から睨まれ、遂には呂嘉討伐軍まで組まれた。

呂嘉討伐軍指揮官は韓千秋と樛楽であった。樛楽は、樛氏の実弟であった。






追い詰められた呂嘉は遂に反乱を起こし、南越王趙興と太后樛氏を攻め殺し

趙嬰斉の孫・趙建徳(ちょうけんとく)を勝手に王位につけた。

討伐軍は南越深く侵入したが、伏兵作戦により全滅し韓千秋も樛楽も戦死した。

が、漢政府は諦めず伏波将軍路博徳(ろ・はくとく)に軍を率いさせ、五路を下って再び南越へ侵攻させた。

南越では「五方向から攻められてはたまらない」「路博徳には勝てない」という意見が主流を占め、

次々と降伏者が出て討伐軍と戦うどころではなくなってしまった。

呂嘉と趙建徳は深夜に城から逃げ出したが、捕えられ斬られた。


趙佗がはじめて南越王になってから、五代九十三年で南越国は滅亡した。

国は滅びたが、一族は残った。

南越の蒼梧を領有していた秦王趙光(ちょうこう)は呂嘉には同調せず、

逆に路博徳の為に南越国内を抑えて漢に服従したため随桃侯に取り立てられた。


南越・趙家系図



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