太僕として、馬・馬車の管理を任された夏侯嬰は、次第に戦車隊指揮の才能を発揮した。 夏侯嬰は雍丘という所で、秦の丞相・李斯の息子李由率いる軍勢を戦車隊で急襲激戦し、 あっという間に打ち破った。 開封という所では秦の将軍・趙賁の軍を戦車隊で急襲し、これまたあっという間に打ち破った。 曲遇という所でも戦車隊で急襲し、秦の将軍楊熊を打ち破った。(この戦いで劉邦の名は高まった。) ![]() これらの功績により、夏侯嬰は滕公(とうこう)と称された。 これらの功績は、劉邦の乗る馬車を守りつつ稼いだ功績である。 武関を越え、秦の領内に侵入してからも、夏侯嬰の活躍は続く。 藍田でも秦軍を戦車隊で急襲し、秦の息の根を止めた。 そして覇上で、秦三世の子嬰が降伏した。 しかし項羽がやって来て、上将の権限で劉邦軍の功績の上に座ってしまった。 (項羽軍が秦正規軍を引き付けてくれていたから、劉邦は秦に侵入することが出来た。 劉邦の功績の半分は項羽のお蔭でもある) 項羽の論功行賞で劉邦は僻地の蜀漢に飛ばされ、漢王と名乗った。 蜀漢に向かう途中、多くの将軍や部隊長・兵卒が逃亡した。 残った者も故郷の歌を歌って泣き、故郷に帰りたがった。 もちろん、夏侯嬰も気が滅入って仕方が無かった。 蕭何・曹参・樊 ![]() ・・・・・・・・・・・・・・・ 蜀漢の首都・南鄭に向かう途中、14人の者が法に触れ死罪を言い渡された。 夏侯嬰は死刑の実況見分をやらされることとなった。 13人が打ち首にされ、あと一人となった。 しかし、最後の一人が急に顔を上げ、劉邦を罵りだした。 「漢王は天下に志があるのではないのか?それならなぜ、わざわざ男一匹の首を斬ろうとなさる?」 夏侯嬰は「こいつ、なかなかおもろいこと言うな。どうせ死刑だから話くらい聞いてやろう。」と思い、 縄を解かせ、処刑を中止させた。 そして別室に呼び、言いたいことを言わせてやろうとした。 その死刑囚の名は韓信といった。 彼こそ、「高祖の三傑」の一人になる男であった。 |