第三話:急襲!戦車隊


太僕として、馬・馬車の管理を任された夏侯嬰は、次第に戦車隊指揮の才能を発揮した。


夏侯嬰は雍丘という所で、秦の丞相・李斯の息子李由率いる軍勢を戦車隊で急襲激戦し、

あっという間に打ち破った。

開封という所では秦の将軍・趙賁の軍を戦車隊で急襲し、これまたあっという間に打ち破った。

曲遇という所でも戦車隊で急襲し、秦の将軍楊熊を打ち破った。(この戦いで劉邦の名は高まった。)

陽でも戦車隊で秦軍を急襲激戦し、打ち破った。

これらの功績により、夏侯嬰は滕公(とうこう)と称された。

これらの功績は、劉邦の乗る馬車を守りつつ稼いだ功績である。


武関を越え、秦の領内に侵入してからも、夏侯嬰の活躍は続く。

藍田でも秦軍を戦車隊で急襲し、秦の息の根を止めた。

そして覇上で、秦三世の子嬰が降伏した。


しかし項羽がやって来て、上将の権限で劉邦軍の功績の上に座ってしまった。

(項羽軍が秦正規軍を引き付けてくれていたから、劉邦は秦に侵入することが出来た。
劉邦の功績の半分は項羽のお蔭でもある)


項羽の論功行賞で劉邦は僻地の蜀漢に飛ばされ、漢王と名乗った。

蜀漢に向かう途中、多くの将軍や部隊長・兵卒が逃亡した。

残った者も故郷の歌を歌って泣き、故郷に帰りたがった。

もちろん、夏侯嬰も気が滅入って仕方が無かった。

蕭何・曹参・樊ら、沛での挙兵以来付き従ってきた者達も同じ心境だった。

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蜀漢の首都・南鄭に向かう途中、14人の者が法に触れ死罪を言い渡された。

夏侯嬰は死刑の実況見分をやらされることとなった。

13人が打ち首にされ、あと一人となった。

しかし、最後の一人が急に顔を上げ、劉邦を罵りだした。

「漢王は天下に志があるのではないのか?それならなぜ、わざわざ男一匹の首を斬ろうとなさる?」

夏侯嬰は「こいつ、なかなかおもろいこと言うな。どうせ死刑だから話くらい聞いてやろう。」と思い、

縄を解かせ、処刑を中止させた。

そして別室に呼び、言いたいことを言わせてやろうとした。

その死刑囚の名は韓信といった。


彼こそ、「高祖の三傑」の一人になる男であった。


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