第七話:首と地図と匕首


荊軻は一人で樊於期の邸を訪ねた。

荊軻 「秦王の樊将軍に対する仕打ちはまことにむごい。

父母一族は皆殺しとなり、財産は全て没収されました。

しかも、樊将軍の首には黄金千斤と一万戸の領地が懸けられているとか。

この先どうなされるおつもりか。」

樊於期 「おお・・・。それを思う度に骨の髄まで染み透る痛みを覚えます。

しかしどうしたらよいのか・・・考えもつきません。」

荊軻 「燕の憂いを消し、樊将軍の仇も討てる策がありますが、いかがですかな。」

樊於期 「なんと!その様な策があったとは。

で、どうすると言うのです?」

荊軻 「将軍の首をいただき、秦王に献上するのです。秦王は必ず私を引見します。

その時左手で奴の袖を掴み、右手で胸を刺し通します。

そうすれば将軍の仇を討ち、燕の怨みもそそぐことができましょう。

樊将軍、どうなされますか。」

樊於期 「おおお!昼も夜も歯噛みしていたことは、この策であったか。

今日は良いお言葉が聞けたわい。」

そう言うと樊於期は自らの首をかき切った。


この報はすぐさま太子に伝えられた。

太子は馬車で駆けつけ、動かなくなった樊於期に覆いかぶさって号泣した。

しかし死んだ者は戻ってこない。結局樊於期の首は箱に収められた。


また太子は、天下一の切れ味を誇る匕首を手に入れていた。

趙に住む徐夫人の匕首といい、太子はこれに毒で焼きを入れさせた。

試しに人を傷つけてみると、傷から糸すじほどの血が出るだけでもただちに絶命した。



樊於期の首、督亢の地図(督亢一帯を献上するという意味)と徐夫人の匕首が揃った。

太子は荊軻出立の準備を始めた。


しかし荊軻に出立する気配は見られなかった・・・



昼も夜も歯噛みしていた

「切歯扼腕」の語源はここだろうか。

原文は「樊於期偏袒やくわん而進曰、『此臣之日夜切歯腐心也、乃今得聞教。』」とある。


徐夫人の匕首

史記集解では「陳夫人と記す書もある。」とし、史記索隠では「徐は姓で、夫人は名である。

男性であろう。」としているが、実際のところよくわからない。


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