第六話:太子丹その3


荊軻は太子丹と会うと、田光の死と最期の言葉を伝えた。

太子は涙を流し、しばらくしてからやっと口を開いた。

「私が田先生に『口外しないように』と念を押してしまったのは、

大事を成功させたいという心からだったのに・・・。

命と引き換えにして他言せぬ証とされたのは、私の本意ではなかった。」


荊軻が座に着くと、太子は席を外して床に頭をつけて敬礼して言った。

太子丹 「秦は大きな野心を抱いており、その貪欲ぶりは留まるところを知りません。

韓王は虜となり韓は滅亡し、南は楚を攻撃し北は趙を攻めています。

秦の将軍王翦は数十万の兵を率いしょう水・ぎょうに駐屯し、、

李信は太原・雲中に進出しています。


我が燕は弱小で秦に当っても勝つことはできません。

諸侯は秦に屈服しており、合従したくてもできません。


私の考えを申します。

天下第一の勇士が使者として秦へ行き、大きな利益をちらつかせれば秦王は貪欲ゆえ

必ずこちらの思う壺に嵌りましょう。

そこで秦王を脅迫し、諸侯から奪った土地をことごとく返還させれば願ってもないことです。

それがうまくゆかなくても、秦王を刺殺し国内に混乱を起こしその隙に諸侯で合従すれば

必ず秦は倒せます。

私にとってこの策を成就させることが何よりの願いなのです。

しかし、この使者を誰に委ねたらよいものか、人を見出せずにいました。

荊卿どの、どうかこの件引き受けてはくださいませんか。」

荊軻は一度は辞退したが、結局引き受けた。

さっそく丹は荊軻に上卿の位を与え、高級な宿舎を与えた。

丹は荊軻の宿舎に赴き自ら太牢(最高の食事)を勧め、馬車や美女を与えて機嫌をとり結んだ。


しかし、荊軻は一向に出立する素振りを見せなかった。

そうしているうちに趙は王翦に打ち破られ滅亡し、秦軍は燕の南境まで到達した。

丹は切羽詰って荊軻に頼み込んだ。

太子丹 「秦軍は今にも易水を渡り、燕に侵攻しようとしています。」

荊軻 「秦が私を信用してくれるものが無ければ、

今すぐに出発しても秦王には上手く近づけません。

現在、秦は樊将軍(樊於期。第五話参照)を捕らえようと黄金千斤と一万戸を懸賞にして

必死になっております。

もし樊将軍の首と督亢(肥沃な田が広がっていた燕南部)の地図を秦王に献上するならば、

秦王は喜んで私を引見するでしょう。

そのときにこそ太子さまの恩に報いることができるのですが。」

太子丹 「・・・な、なんと。樊将軍は切羽詰って私の下へ身を寄せられたのですぞ。

私事で樊将軍のお心を傷つけることは耐えられません。

どうかお考え直しを。」

荊軻 「・・・・・・・・・。」

荊軻は丹の殺すに忍びない心境を察し、自ら樊於期のもとを訪ねた。


HOME 第七話