第一話:慶軻周が商(殷)を滅ぼすと、商の故地は衛国とされ武王の弟がそこに封じられた。 後に衛は魏の属国となり、その領地は濮陽の街一つだけとなった。 さらには秦が強盛となり、諸国を圧迫し始めていた。 荊軻の祖先は斉の人で、元々の姓は慶氏であった。斉では慶氏は有力な大族であった。 ゆえに衛の人は彼を「慶卿」と呼んだ。後に北方の燕へ行くと、「慶」が訛って「荊卿」と呼ばれた。 (今回の列伝では「荊」軻と表記する。) 荊軻は読書と剣術を好み、修練を重ねた。 衛の元君に目通りして自説を進言したが受け入れられなかった。 その後、秦王政六年(後の始皇帝。紀元前242年)濮陽は秦軍に破られ、 衛の元君は野王へ領地替えとなり一族揃って移住させられた。 どうやら荊軻はこの前後に衛を出たようである・・・ ちなみに、荊軻の事跡は多分に伝説が含まれており、 彼の伝が真実であったかどうかも疑わしいと主張する人もいる。私もちょっと疑わしいと思っている。 だが今回の列伝では、史記の記述に沿って人物を紹介していこうと思う。 |