第十話:寸指測淵


項羽は、竜且を殺されて焦った。

鍾離眛・周殷・竜且らは楚軍の歴戦指揮官であり、かつ項羽の信頼厚き勇猛な将軍でもあった。

そのうちの一人・竜且を、韓信は赤子の手を捻るが如く、簡単に殲滅したからである。


項羽は和議を結ぼうと、くいの人武渉を使者として韓信を説得させた。

(武渉の言うことは理路整然としており、その先見の明にはハッとさせられる。)

武渉は斉に着くと、斉王韓信に目通りし、弁じた。

武渉 「天下は長い間、秦に痛めつけられましたが、互いに力を合わせて秦を滅ぼしました。

項王は諸侯の功績を明らかにし、土地を割き与え、兵卒を休養させました。

しかし漢王はまたも戦争を起こして、他人の領土に侵入し、土地を横取りしました。

漢王は天下の土地全てを呑み込むまで戦争を止めるつもりはありません。

どこまでいっても満足することがない、そういった類の酷い奴です。

そして、漢王はあてにできぬ男です。

漢王の命は項王の掌の中にあったことが度々ありましたが、

項王は慈しみの心でもって漢王を生かしてやられました。

ところが、漢王は危機を脱すると再び約束を踏みにじり、またも項王を攻撃する始末。

要するに、漢王の『親しみ』は信用できません。

いま斉王さま(韓信)は、ご自分では漢王と親密な関係にあるとお考えになり、

漢王の為に全力で戦っておられます。

しかし、最後には漢王の手で捕えられるでしょう。

斉王さまが現在安泰なのは、項王がまだ健在だからなのです。

はっきり申しまして、漢王・項王の運命は、斉王さまが握っておられます

斉王さまが、西に味方すれば漢王が勝ち、東に味方すれば項王が勝ちます。

もし、項王が滅亡すれば、今度は斉王が滅ぼされる番です。

なぜ漢に背いて楚と同盟し、天下を三分しようと考えないのですか

この機会を見逃されて、あくまでも漢に忠義立てして楚を攻撃なされるとは・・・。

知恵者ともあろうお方が、そんなことでよいのですか。」


韓信はこの申し出を蹴った。


韓信 「わたくしは項王に仕えたが、官は郎中にすぎず、

役目といえば、戟を持って宮中を護衛していただけだった。

進言は一度も聞き入れられず、策略も取り上げられなかった。

だから楚を離れ、漢に帰属したのだ。

漢王さまは、わたくしに上将軍の印を授けてくださり、数万の兵をつけてくださり、

ご自分の衣服を脱いでわたくしに着せてくださり、

時にはご自分の食事を勧めてわたくしに食べさせてくださったのだ。

言葉は聞き入れられ、策略は取り上げられた。

だからわたくしはここまでのし上がることができたのだ。

今、漢王が深い親愛と信頼でわたくしを扱ってくださるのに、それを裏切るのはよくない。

わたくしは死んでも態度を変えるわけにはいかぬ。

項王には、同盟を断る旨を伝えて欲しい。」


武渉は嘆息して斉を去った。

彼は、韓信の最期を正確に見抜いた数少ない一人であった。


しかし、韓信の最期を見抜いた、もう一人の男がいた。

かい通である

彼は韓信の帝国を築く以外無いと思い、こう進言した。

かい 「わたくしは昔、人相を観る術を学んだことがあります。」

韓信 「ほう。かい先生はどのようにわたしの人相を観られた。」

かい 「あなたさまのお顔は大名程度のものです。それに危険で落ち着きませんな。

しかし、あなたさまの背は、言い表せないほどの貴さがあります。」

韓信 「・・・それはどういうことかな。」

かい 「天下に反乱が起こったとき、英雄豪傑たちが軍を興すと兵は雲の如く集まりましたが、

秦を倒すことのみが皆の心にありました。

しかし今、楚と漢は敵味方に分かれて争い、

天下の罪なき民は、無残にも野山に骸骨をさらし、その数は数えきれません。

項王は逃げる漢軍を追撃しけい陽に達しましたが、漢軍に逆襲され、

前進できずに三年が経ちました。

一方、漢王は数十万の兵をひき連れながらも、戦闘では戦果をあげられずに逃げ惑い、

けい陽で負け、成皋で叩かれ遁走し、宛に逃走しました。

これは、「智者勇者ともに苦しむ」というものです。

激しかった気力は失せ、兵糧は底をつき、

人民は疲れ果てて怨みを抱き、頼る者すらありません。」

韓信 「・・・・・・・・・。」

かい 「わたくしの推察するところでは、天下の賢人聖人でなければ、

この天下の災難を打ち止めることはできないでしょう。

現在、二人の君主の運命は斉王さまの手に握られております

斉王さまが、漢につけば漢が勝ち、楚につけば楚が勝ちます。

わたくしは愚かながらも方策を申し上げますが、用いられぬことが心配です。」

韓信 「・・・申してみよ。」

かい 「では申します。

斉王は、楚漢の両方を利用してどちらも存続させます。

要するに、天下を三つに分け、三国鼎立されるがよいでしょう。

そして、この状況では先に動いてはなりません。

斉王さまは装備充分な軍勢をお持ちで、燕・趙の二国を従えております。

その力で、楚漢の勢力の及ばない、彼らの後方の空白地域を制圧し、

天下の民の命を救うというお気持ちでおられれば、直ちに諸侯は従いましょう。

広大な国は分割して弱体化させ、その地を諸侯に与えれば、

天下は斉王に服従し、感謝するでしょう。

そして斉本土はしっかりと抑え、膠水・泗水の流域まで進出し、

謙虚で礼儀正しくしていれば、諸侯はますます斉になびくでしょう。

『天の与える物を取らなければ、かえってその咎めを受ける。

やらなくてはいけない時に実行しないと、かえってその災いを受ける。』

と申すではありませんか。

どうか斉王さまはわたくしの方策を考慮してくださいませ。」

韓信 「・・・漢王は、わしを非常に優遇してくださる。

わしを漢王の車に乗せてくださり、わしに自分の衣服を着せてくださり、

自分の食事を勧めてくださった。

『人の車に乗った者は、その人の心配事を背負い、

人の衣服を着た者は、その人の悩みをわかち合い、

人の食物を食べた者は、その人の為に死ぬ。』

という言葉もあるではないか。

わしは利に惹かれて義に背いてはいけないのだ。」

かい 「斉王さまは、ご自分では漢王と親しいとお思いで、子々孫々まで続く事業を

立てるおつもりでしょうが、わたくし愚考するに、それは間違いです。

その昔、張耳と陳余は死を誓い合った交友を結んでおりましたが、

後に仲違いし、互いに激しく怨みあいました。

張耳はこそこそ逃げ隠れながら漢王の下に辿り着き、

漢王は彼に兵を与えて陳余を攻撃させました。

結局陳余は捕えられ、てい水のほとりで斬首され、天下の笑い者になりました。

あの二人の仲は天下最高の親しさでしたが、

結局最後には一方が他方を捕えることになりましたのは何故でしょうか?

災いは過度の欲望から生まれ、その時の人の心は予測しにくいからなのです

斉王さまは漢王に忠誠を誓い、今の関係を保たれようとしておられますが、

張耳陳余の仲には程遠いのですぞ。

あなたは、漢王が自分に危難を与えることは無い、とお考えのようですが、

それは大きな間違いです。」

韓信 「それはそうだが・・・」

かい 野の獣が捕り尽くされますと、猟犬は不用となり煮殺されて食われてしまうものです。

また、勇智が主君を脅かす者は、身に危険が迫り、

功績が天下を覆う者は、恩賞に与らない、と申します。

今、斉王さまは魏王豹・夏説を虜にし、井けいを下って陳余を処刑し、

趙を屠って、燕を脅し、斉を平定され、竜且を殺し、それを漢王に報告なさいました。

功績は天下に比類なく、智謀は世に稀である、とはこのことです。

しかし、漢王が震え上がる程の威力と、恩賞を超えた功績を持たれています。

もし、楚についても楚の人々は信用せず、漢についても恐れられるだけです。

そもそも人臣の身分でありながら、主君を震えさせる威力を持ち、

名声は天下に鳴り響いている
のですぞ。

斉王さまの為に、密かに心配する次第です。」

韓信 「・・・・・・。

かい先生、それくらいにしていただこう。

わしもよく考えてみる…。」

かい 「他人の意見を聞き入れることは、出発点であり、

計画を練り上げることは、成功の鍵となります。

間違った意見を聞き入れて、妥当でない計画を立てた者で、

最後まで安泰だった者はおりません。

些細な計算がよく出来ても、大きなことを見落とし、

知識では理解していても、決断して行動することの出来ぬことは、不幸の種ですぞ。

功業というものは、成功しにくく失敗しやすいもの。

機会というものは掴みにくく失いやすいものなのです。

機会、機会は二度と訪れないのです。どうかご熟慮を・・・。」



韓信は、漢を裏切るに忍びなかったし、手柄が大きいのだから

漢王が自分の国・斉を取り上げることはあるまい、と考えた。


数日後、韓信はかい通を呼んだ。

そして、「わたしには、漢王を裏切ることができない。」と告げた。

かい通は、頭が狂ったふりをして巫になり、何処かへ消え失せた。

韓信は追わなかった。



韓信は二人の論者から、自分の運命を明確に告げられた。かい通の論は行き過ぎだとしても・・・。

韓信は二人の意見を頭では理解しながらも、結局用いることができなかった。

韓信は以前、項羽のことを「婦人の情け深さ」を持つ男、と言ったが、

韓信も「婦人の情け深さ」を持っていた。


このときに韓信の運命は決まっていたと言えるかもしれない。

嗚呼、悲しい哉。


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