漢の二年(紀元前205年)六月、漢に降伏した魏王魏豹が劉邦に使者を遣して、 「親の病気を見舞いたいので、帰国したい。」と願い出、 帰国すると直ちに漢との国境でもあった河水(黄河)の渡し蒲津関を封鎖し、項羽と講和した。 劉邦は食其を遣わして説得を試みたが、失敗した。 劉邦はこれを討伐するために、韓信を左丞相に任命し、独立した一軍を率いさせ魏を攻撃させた。 |
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漢軍が進攻してくると聞いた魏豹は蒲坂に兵を集中させ、 河水の渡し場を封鎖した。 これに対し、韓信は実に柔軟だった。 河水に船を多数並べ、力押しで渡ろうとしていると 見せかけて、裏では密かに別軍を派遣し、 夏陽から渡河させていたのである。 しかし、大規模な軍事行動は即魏軍に察知されてしまう。 数千人分が渡河するための民船を徴発したりすれば、 敵に作戦が筒抜けとなってしまう。 そこで、韓信は独創的な案を出した。 |
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民間から木の桶を徴発し、それを縄で繋ぎ合わせ、その上に板を乗せて船の代わりとしたのだ。 夏陽から密かに渡った別働隊は、蒲坂で韓信本隊と対峙している魏軍など無視し、 一気に魏の首都安邑を衝き、すぐにこれを占領した。 「魏都占領される」の報は瞬く間に広まり、魏豹を激しく狼狽させた。 前に韓信、後ろに別働隊。いつの間にか挟撃され、首都は奪われているのである。 魏豹はまるで悪夢でも見ている気持ちであったであろう。 魏豹は悪あがきをして韓信に決戦を挑んだが、韓信は赤子の手を捻るが如く快勝し、 簡単に魏豹を捕らえた。 韓信は魏豹を殺さず、陽にいた劉邦に送った。劉邦は魏豹を赦し、陽の守備につかせた。 魏国は河東郡・太原郡・上党郡に分割された。 韓信の才能をつぶさに知った劉邦は非常に喜んだ。 自分が陽で囮となり項羽をひきつけておき、その間に韓信なら項羽の同盟国であった 代・趙・燕・斉を片っ端から攻め降すことができると考えたからである。 (『史記』のこのくだりを読むと、壮大な軍略に感嘆を禁じえない。) 劉邦は項羽の後背地を脅かすべく、老いたる張耳を韓信の下にさらに派遣し軍を増強させた。 韓信と張耳は代に侵攻し、楽々と支配者であった夏説を捕虜とした。 劉邦は項羽に負け続けそのつど兵を失ったので、韓信が戦に勝つたびにその精鋭を奪った。 劉邦があまりにも度々兵を奪うので、韓信軍はわずか二万人前後となっていた。 要するに韓信は弱兵を率いることを強いられたのである。 韓信と張耳はその兵を率いて、大国趙を攻めなければならなかった。 誰しもが、韓信は負けると思っていた。 張耳や曹参でさえそう思っていた・・・ |