第四話:初めての実戦指揮



紀元前206年八月、韓信は将軍達を率い、

修復した陳倉の故道(新道の棧橋は焼け落ちている)から出て雍王章邯を急襲した。

章邯は急を聞いて陳倉に布陣したが間に合わず、韓信に打ち破られた。

章邯は退却して好畤に陣をしいたが、韓信はこれを打ち破り、章邯は退いて廃丘に籠った。




章邯を抑え込んだ韓信は諸将を派遣し、隴西・北地・上郡を平定し、

塞王司馬欣・てき王董翳を降伏させた。これで三秦は完全に漢の支配下に入った。

紀元前205年になると、韓信は河南王(都は洛陽)の申陽(しんよう)を降し、

韓王鄭昌(ていしょう)をも撃破し勢いに乗った。

三月、ついに韓信率いる漢軍は河水(黄河のこと)を渡り、進撃を開始した。

魏王の魏豹は降伏し、殷王の司馬こうを捕虜とした。

韓信は勢いに乗って洛陽に入り、漢軍は五十六万の兵を集めた。

この兵力を率いて漢は項羽留守中の彭城を攻めた。

彭城はあっという間に陥落し、多勢を誇る漢軍は略奪ををくりかえし、

宴会を開いてどんちゃん騒ぎをしだした。


一方、項羽はこの報を聞き、僅か三万の兵を率いて斉の地から南下した。

漢軍はまさか項羽が来るとは思わず、酒を飲み騒いでいた。

項羽は漢兵が寝静まっている早朝に攻撃をかけ、漢軍を大混乱に陥れた。

そのまま彭城に突入し、漢軍は壊乱し散り散りとなった。

穀水・泗水は死体で埋まり、すい水は数十万の死体で流れが止まった。

劉邦の父母妻子は捕虜となり、わずかに息子の劉盈と娘の魯元だけが救い出された。


韓信はこの混乱の中で敗残の兵を掻き集め、迫り来る楚軍を食い止めた。

そして退却に退却を重ね、けい陽付近でついに韓信はしつこく追撃してくる楚軍を撃破し、

けい陽城に入った劉邦に再起の時を与えた。



こうして見てみると、韓信は大軍の指揮官としての働きよりも、

寡兵で強大な敵を破るといった働きの方が光っている。


この後、韓信は独立した一軍を与えられ、別働隊として楚を脅かすこととなるのだが・・・



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